◇長編小説◇飯嶋和一「北斗の星紋」第12回 後編
大金を投じて新造した弁財船には次々と海難が──
四十
天明六年九月十日、普請役(ふしんやく)の皆川沖右衛門(おきえもん)は、東蝦夷地アッケシ(厚岸)に一人残って本年最後の交易業務の指図と残務整理にあたっていた。蝦夷地探索に派遣された五人の普請役のうちで、庵原弥六(いはらやろく)が三月に病死し、佐藤玄六郎と山口鉄五郎はすでに松前に戻り、青嶋俊蔵も検地竿役(さおやく)の徳内(とくない)とともにアッケシから陸路で松前へ向かっている途中だった。
この十日朝、皆川のもとにニシベツ(西別)とシベツ(標津)から先住民アイヌの使者が書簡を携えて次々と駆け込んで来た。
ニシベツに派遣した検地竿役の北橋新三郎からは、九月八日の未明、五社丸がニシベツで台風に吹きあおられて座礁、難破したことが記されていた。また、シベツの運上屋(うんじょうや)で交易を仕切っていた下役の大塚小市郎からの報せも、神通丸が九月七日夜シベツの前崎で強風にあおられて破船したことを告げていた。船頭以下の船乗りは両船とも全員無事で、水主(かこ)の二人が軽い怪我を負った程度だという。幕府から両船に与えられた証書の類も無事に持ち出されたことがわかった。
しかし最後の最後にこんな結末が待っていようとは皆川も予期しなかった。前年の東蝦夷地から送った塩鮭は、品川で売りさばき千三百両余の収益を上げた。今年はそれに数倍する収益を見込めると思い込んで疑わなかった。アッケシはもとよりキイタップ(霧多布)とクナシリ(国後)の運上屋には、合わせて約八万数千尾の塩鮭がまだ残されていた。そのほかにも魚油、干した鱈(たら)やナマコも、相当の量が残されているはずだった。五社丸と神通丸の御用船二隻が破船となったことは知ったものの、前年に雇い入れた自在丸の消息はつかめなかった。
使える船を雇い入れて東蝦夷地に廻してもらえれば、いくらかでも損失は減らすことができる。落胆していても仕方がない。皆川は、松前にいるはずの佐藤と山口に向けて御用船二隻の難破を報せ、八百石積み級の船を押さえてアッケシへ廻してほしい旨を伝えることにした。同時に上司の勘定組頭金沢安太郎(あんたろう)に一報すべく筆を取り、先住民の使者に託して松前へ向かわせた。
青嶋俊蔵と徳内が松前に着いたのは九月の終わりだった。佐藤玄六郎と山口鉄五郎、そして青嶋の普請役三名は、この年の蝦夷地探索をまとめ、江戸の勘定奉行所に報告しなくてはならなかった。松前にはカラフト探索でクリスナイまで北上した大石逸平(いっぺい)も、ウルップ島まで渡りオロシャ人の建てた家を実地に検分した徳内もいた。
十月に入ってまもなく、普請役の佐藤と山口は報告書を携え江戸へ向かって松前を発った。津軽海峡を渡り、陸路でひと月をかけ江戸へ向かうことにした。佐藤も山口も、それを見送った青嶋や徳内も、「関東大変」と呼ばれる江戸での政変を知るはずもなく、北海のキイタップ場所で御用船二隻が難破したこともまだ知らなかった。
佐藤玄六郎と山口鉄五郎が江戸へ向かったのと入れ違いに、アッケシの皆川が送ってきた先住民の使者が松前の青嶋俊蔵のもとへ駆け込んで来た。その書簡を見るなり青嶋は血の気が引いていくのを覚えた。ここにいたって、まさか神通丸と五社丸が破船となる海難が起こるとは夢にも思わなかった。二隻は、それぞれ千二百三十五両の大金を投じて新造した弁財船(べざいぶね)で、通常の八百五十石積み船の五割増しもの建造費をかけた。それがいっぺんに北海の藻屑(もくず)となった。
アッケシ、キイタップ、クナシリの三場所には、まだ相当な量の塩鮭や魚油などが残されていた。神通丸と行動をともにしていた雇い船の自在丸の消息は、不明なままだった。少しでも損失を減らすためには、新たに船を雇い入れ東蝦夷地へ送るしかなかった。すでに十月に入り、東蝦夷地は寒気が増して遅れれば遅れるほど強い北西風にあおられ北行の航海は難しくなる。青嶋は、松前で御用商苫屋の八百石積み永寿丸(えいじゅまる)を押さえ、急遽アッケシに向けて出帆させることにした。