◇長編小説◇飯嶋和一「北斗の星紋」第13回 後編
玄六郎らは蝦夷地探索の停止を申し渡され──
宝暦八年七月二十日、老中酒井忠寿は、阿部正右ら五人の僉議掛に「金森領分の駕籠訴一件を吟味し直せ」と命じ、八月には石徹白の件もあわせて審理するよう通達した。
宝暦八年十月二日、僉議掛による審議の結果、郡上藩主の金森頼錦は身柄を尼崎城主松平家へ預けられることになり、いずれ重罪に処されることが明らかとなった。
そして、同月二十九日、郡上藩の一件にかかわり情実から不正を働いた幕吏への処断が下りた。
老中の本多伯耆守正珍、罷免(ひめん)。逼塞(ひっそく)。
若年寄の本多長門守忠央、改易。津山松平家へ永(なが)預け。
大目付の曲淵英元(まがりぶちひでもと)、罷免。小普請入り。閉門。
勘定奉行の大橋親義、改易。中村相馬家へ永預け。
笠松郡代の青木次郎九郎、罷免。小普請入り。逼塞。
本多正珍家臣の石井丹解(たんげ)、重追放。
本多忠央の養子兵庫と大橋親義の息子三人も改易処分とされ、両家はお家断絶となった。
十二月二十五日、金森頼錦は、改易のうえ南部家へ永預けを言い渡され、嫡男の出雲守も改易処分を受けて、お家断絶の憂き目を見た。
ここに、藩主の改易ばかりか、藩そのものが百姓一揆によって取り潰しと決まった。これまた異例中の異例の出来事だった。
郡上藩金森家臣の処分は、十三名におよんだ。主なところは、
寺社奉行の根尾甚左衛門とその下役の片重半助、死罪。
国家老の渡辺外記と粥川甚兵衛、遠島。
元家臣で年貢増徴を図った黒崎弥左衛門、遠島。
江戸家老の伊藤弥一郎、中追放。
大目付の津田平馬、中追放。
また、石徹白の一件においては、神主の上村豊前が死罪とされた。
あの宝暦八年の秋から冬にかけて、老中をはじめ幕府中枢をなす要人が次々と処罰され、失政を理由に一藩が取り潰された。幕府の裁きは、幕府権力と結びつく強者には大層甘く、弱き者はただ虐げられるものと相場が決まっていた。ところが、郡上一揆の審理では、裁きの公平が珍しく貫かれたという意外な印象が強かった。江戸の町は、阿部正右や依田政次ら僉議掛とともに、この審理に加わり主導したという田沼意次に対する賞讃の声であふれた。
それでも、加瀬屋伝次郎は釈然としなかった。郡上藩領の農民には、はるかに厳しい沙汰が下りた。死罪となった者十四人。そのうち頭取と目される四人は獄門とされた。そのほか審理の間に江戸で牢死した農民は十九人を数えた。追放などの処分を受けた者にいたっては、数十人にものぼった。
郡上藩主の金森頼錦も、本多長門守や勘定奉行の大橋らも、お家断絶にはなったものの牢屋暮らしすらまぬがれた。連中こそが獄門に処されるべき極悪人であるはずだった。
同年十一月十八日、田沼意次は遠江(とおとうみ)国の相良(さがら)に領地をもらい、ついに城持ち大名となった。それまで遠州相良は、郡上一揆で罷免改易された本多長門守忠央の領地だった。その出来過ぎた話が伝わった時、加瀬屋伝次郎は、世情の賞讃一色とは逆に、江戸城における権勢争いの臭気を感じた。
翌宝暦九年一月、郡上一揆の頭取と目され獄門の処罰を受けた定次郎、四郎左衛門、由蔵の首が郡上八幡に運ばれ、穀見(こくみ)の刑場でさらされることになった。
刑場に集まった彼らの親族が、「御裁許の前にむなしく牢死した者さえ多いなかに、御裁許の落着を承知してあい果て、そのうえ御歴々様がたが首をお運びくださって、獄門になされるとは、この者たちはこのうえない幸せ者です。本望をとげ、喜ばしく存じます」と口上を述べた。驚いた役人たちは、「不埒(ふらち)の者ども、皆立て、立て」と叫んで追い散らしたという。
その逸話は江戸にも伝えられた。伝次郎は「あっぱれ、お見事」とうなずくしかなかった。