◇長編小説◇飯嶋和一「北斗の星紋」第11回 後編
蝦夷地では検地竿役の新三郎がある疑念を抱き……
この朝、ニシベツ河口の沖、野付水道を大船が北へ向かって通過した。白地に朱の丸を染めた旗を艫(とも)に掲げ、「御直(おじき)」「御用」の墨跡も見えた。野付半島の北、八里半(約三十四キロメートル)離れたシベツ川の運上屋に向かう神通丸だった。
ニシベツには五社丸が入ることになっていた。八百五十石積みの五社丸は、船頭の平助以下十五名の水主(かこ)が乗り組んでいた。船頭平助は、伊豆新島の住人で八丈島渡海船の船頭を務めるなど荒海の航海には充分な実績を備えた人物だった。水先案内として松前の権右衛門、御用商苫屋(とまや)の場所支配人、エゾ語通辞、番人らあわせて二十人ほどが乗って来るはずだった。
九月六日昼、五社丸はノサップ(納沙布)岬を越えて野付水道に入り、ニシベツ河口の前浜に船を入れようとしたが、東南の風に妨げられ一旦ニシベツの北にあたるバラサン村の沖まで進み、帆を半分に絞って何とかニシベツの前浜へ船を廻した。季節外れの妙に湿った生暖かい風だった。
五社丸が帆を下ろし、交易品の米俵や酒樽(さかだる)などを艀(はしけ)舟や先住民の板つづり舟で浜に上げていた申刻(さるのこく)過ぎ(午後四時頃)、急に北東風に変わった。北東のクナシリ島の方から馬の尾をはね上げた形の雲が次々に現われたかと思うと真上まで来てすぐに消えた。天候の激変を報せる危険な雲だった。
北東から台風の襲来を察知した船頭平助は、五社丸に残っていた六十貫目(約二百二十五キログラム)から九十貫目までの碇(いかり)六丁をすべて海中に投じさせた。浜までは距離があり、もやい綱を結びつけられる大樹なども浜には見当たらなかった。
空一面、赤黒く焼け、それが墨を流した暗い空となり激しい雨が降りかかってきた。ニシベツの浜にいた新三郎は、荷揚げ作業を中止し、艀や板つづり舟をすべて浜に引き上げるよう先住民や番人たちに命じた。水先案内や苫屋の支配人、番人たちは浜に上がり、五社丸には船頭平助と水主たちの十六人だけが残った。
闇が降りてからも強風と大雨は止む気配もなく、かがり火や松明の火もすぐにかき消され、風波にもまれる五社丸のきしみ音ばかりが耳に響いた。雨風は激しさを増すばかりで、急なうねりに五社丸は揺さぶられ、強風にあおられた三角波が次々と襲いかかった。
夜半過ぎ、海中から雷鳴のごとき音が長く響き、強風で帆柱があおられ、五社丸が碇を引きずったまま流されるのがわかった。五社丸は三十丁(約三百三十メートル)ほど運ばれ、瀬棚に突き当たってようやく止まった。
船板が破損し浸水が始まって、船頭平助は、水主十五人に海に飛び込むよう命じ、先住民が荒天の中を丸木舟を出し、番人もそれに乗り込んで浮き上がった水主たちを救い上げた。最後に船頭平助も沈みかけた五社丸を後にした。
日付の変わった八日寅の刻(午前四時)頃、座礁した五社丸は浸水がひどく破船となった。水主の二人が怪我を負ったものの、船頭平助と水主の生命には別状なかった。
四日前にシベツに向かって野付水道を北へ通過していった神通丸も、前夜の七日亥の刻(午後十時頃)、同じ台風によって吹き流され、シベツの前浜で座礁、破船の悪夢を現実のものにしていた。
田沼意次が、そして勘定奉行の松本秀持が、未来を賭け、幕府金蔵から三千両を出して新造した御用船二隻は、蝦夷本島の果てで北海の藻屑となった。二年にわたる蝦夷地探索を終え松前に向かった普請役の佐藤玄六郎、山口鉄五郎、青嶋俊蔵の三人も、大石逸平や徳内らも、御用船二隻が難破する事態が起こることなど想像もしなかった。
一方、江戸では御用船二隻の難破を超える激変が引き起こされていた。
(連載第12回へつづく)
〈「STORY BOX」2020年1月号掲載〉