◇長編小説◇飯嶋和一「北斗の星紋」第11回 後編

◇長編小説◇飯嶋和一「北斗の星紋」第11回 後編

御用金令で騒然の江戸をさらなる災厄が襲う。
蝦夷地では検地竿役の新三郎がある疑念を抱き……

 徳内が情味深く我欲の少ない好漢であることは新三郎にもわかった。先住民アイヌに対しても、徳内は、内地商人による一方的な労役の押しつけや卑劣な搾取を憤り、先住民に和語と読み書き算盤を教えることによって知育を向上させ、劣悪な状況から抜け出させる必要を繰り返し語った。彼ら先住民は「日本人」であり、内地商人の奴婢(ぬひ)や下働きではない。知力にはまったく問題がなく、機会さえ与えれば読み書き算盤ぐらいはすぐに飲み込む。それを松前藩は、内地商人からの運上金をあてにし、先住民に和語や読み書きの知育を一切禁じ、内地商人の思うがまま使役できるよう放置していると怒っていた。彼らを「日本人」化することが、先住民自身においても幸福につながると話した。

 また、ここのところ江戸でも、工藤平助の『赤蝦夷風説考(あかえぞふうせつこう)』を始め、盛んにオロシャの脅威を警告する論考が飛び交い、それにつけても蝦夷本島の先住民アイヌを始め千島やカラフトの先住民を教化して、オロシャに対抗するのが南進をはばむ最も有力な手段だと徳内は語った。徳内がほかの者と違っていたのは、各藩それぞれが勝手に領内を取り仕切り、ばらばらに分裂している幕藩の仕組みを超えて、日本国というひとつの国家を念頭に置いている点だった。アイヌ民族は千島列島からカムチャッカまで住んでおり、カラフトにもアイヌ民族がいた。ゆえにカムチャッカから千島列島も、カラフトも、日本古来の領土だと疑うこともなく徳内は考えていた。

 しかし、新三郎は、果たしてそうだろうかと思う。先住民アイヌは異なる言語と信教を持ち、根本から異なる民族だった。文字を持つ民族が優れ、持たない民族が劣るなどというのは、まったくの間違いである。異なるものに優劣を問えるはずがなかった。現に佐藤玄六郎が蝦夷本島を一周できたのは、先住民アイヌの舟によるもので、庵原弥六(いはらやろく)らが前年カラフトに渡ったのも先住民の舟である。そしてまた、彼らの舟で再びソウヤ(宗谷)に帰って来られたわけである。先住民の舟は、巨樹をくり抜いた丸木舟に側板を取りつけただけの、せいぜい五丈(約十五メートル)ほどの大きさしかなく、莚帆(むしろほ)と手漕ぎで北海の荒海を渡る。船磁石も持たず、太陽と星を目当てに、風と海潮を読み、間違えることなく目的地にいたり、同じところに帰ってくる。幕吏が千島列島やカラフトに渡れるのは、先住民アイヌの智恵と航海能力によるものである。蝦夷本島においても渡島(おしま)半島のわずかな和人地を過ぎれば、およそ道と呼べるものは存在しない。この春、徳内と大石は、それぞれアツケシとソウヤへ陸路で向かったが、すべて先住民の道案内によってたどり着いたものである。橋などあるはずがなく、大河は先住民の丸木舟で渡してもらうしかなかった。佐藤ら普請役も、大石や徳内も、先住民がいなければ蝦夷地どころか蝦夷本島でさえ何も探索できなかった。

 先住民には、勘が鋭く口には出さずともこちらの考えていることを読み取る不思議な能力を備えている者がよくいた。

 アツケシ周辺は、真夏の七月初めでも夕暮れには秋の気配をさせた。ワタスゲが白い花を咲かせる海岸やネコヤナギの生える川べりを新三郎は一人でよく歩いた。途方もなく広漠とした湿地にナラと白樺(しらかば)の疎林が寂しく影を落としている東蝦夷地の寒々とした景色は、本州の緑豊かな山河に慣れた新三郎の目にはまったく異境のものとして映った。

 新三郎が手の空いた昼過ぎに海岸を歩き、立ち止まって北西の高山を眺めていた時だった。アツケシ湾から北西にあたる位置に、富士のごとく裾野の広がる美しい形の高山が見えた。八合目あたりまでを原生林が覆い、頂上付近は赤黒い山肌をあらわにした山だった。南のほうから海岸をやって来た先住民と出会った。白いものが髪と髭にまじった先住民は立ち止まって会釈した後、「ピンネ・シリ」と穏やかに言った。

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飯嶋和一(いいじま・かずいち)

1952年山形県生まれ。83年「プロミスト・ランド」で小説現代新人賞を受賞しデビュー。88年『汝ふたたび故郷へ帰れず』で文藝賞、2008年『出星前夜』で大佛次郎賞、15年『狗賓童子の島』で司馬遼󠄁太郎賞を受賞。18年刊行の最新作『星夜航行』は、第12回舟橋聖一賞を受賞。

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