◇長編小説◇飯嶋和一「北斗の星紋」第11回 後編

◇長編小説◇飯嶋和一「北斗の星紋」第11回 後編

御用金令で騒然の江戸をさらなる災厄が襲う。
蝦夷地では検地竿役の新三郎がある疑念を抱き……

「あの山の名ですか」と新三郎が問い返すと、うなずきもせず「はい」と彼は答えた。確かに新三郎は何という山なのかと思っていたので少し驚いた。彼らは慎重で、和語を解していても簡単には口にしない。あたりに人の気配がなく、新三郎が何者なのかを知っているようだった。

「アイヌはあの山のほうに住んでいないのですか」

「いいえ、住んでいます。大きな湖(うみ)があり、魚が捕れます。熊や鹿もたくさんおります」そう答えた後、「アツケシには出て来ません」と付け加えた。

「その人たちは、シャモ(和人)と交わりを持たないのですね」新三郎はそう確かめた。

「はい」とためらうことなくその男は答え、「ご機嫌よろしゅう」と和語で挨拶し立ち去った。

 いい話だった。広大で山地険しい蝦夷本島には、松前藩や内地商人とのかかわりを拒み、太古のままの暮らしをあえて続ける誇り高き先住民がいるのではないかと新三郎は思っていた。

 中国でも、明(みん)朝が滅び、北から女真(じょしん)族が侵攻して清朝を打ち立てた後、清朝は辮髪(べんぱつ)を強制して、髪を剃り落とさない者は反逆者と見なし処刑するとの令をしいた。辮髪は、頭頂部に一つかみの髪だけを残しそれを伸ばして編み、背に垂らす女真族の風習だった。辮髪を受け入れるか、それとも長髪のまま漢民族の矜恃(きょうじ)を持って死ぬかの選択を迫られた。その時に、辮髪を拒み、暮らしを立てるための農具や織機、家畜、菜や穀物の種など必要な物をすべて携え、険しい山の奥へ去った一族があったという。彼ら数十人は茅を切って厳重な柵を作り、来た道を塞いでしまった。その後、山奥に消えた一族は、まったく下界と消息を断ち、どうなったのかはわからないという話を読んだことがあった。

 口に出さなくとも新三郎がどんなことを考えているのか、彼ら先住民はちょっとした仕種や表情から読み取る。文字を持たない民族であるからこそ、人の思いを読む鋭い感覚を備えているように思われた。

 

     三十七
 

 七月二十三日、普請役の一人、皆川沖右衛門(おきえもん)がアツケシに到着した。蝦夷地探索のため派遣された普請役は、佐藤玄六郎、山口鉄五郎、青嶋俊蔵(あおしましゅんぞう)、庵原弥六、そして皆川の五名だった。皆川は松前でもっぱら交易業務の指揮に当たっていた。その皆川から突然もたらされた凶報に、アツケシの運上小屋は沈鬱(ちんうつ)な空気に包まれた。この三月、西蝦夷地ソウヤで越冬した普請役の庵原弥六と松前藩から派遣された柴田文蔵ら四人、あわせて五人が病死したという。

 新三郎が死因を尋ねたところ、皆川は「寒気病(かんきびょう)」と答えた。脛(すね)にむくみが出て、歩くことができなくなり、やがて荒い呼吸が続いて死にいたる病で、寒気のほかは、いかなる原因でその病が引き起こされるのかについて何もわからないという。それでは話にならなかった。ソウヤの先住民はほとんどが無事に冬を越したはずである。言えるのは、海水も凍るといわれる極寒のソウヤで、先住民の智恵に従うことがなければ死が訪れるということだけだった。

 上司の佐藤玄六郎は蝦夷本島の開拓のため数万人規模の移住を口にしていたが、本州と蝦夷本島では気候がまるで異なる。それを実現するためには寒気に対抗する正しい知識と衣食住を始め莫大な金銀を必要とする。前年、幕吏として初めてカラフトに渡り探索にあたった庵原弥六らの死が何ら満足な検証もなされず、山師勘定の推定産高につられるまま本州から大勢の民を移住させれば、たちまち蝦夷本島に白骨の山ばかりが築かれるに違いなかった。

次記事

前記事

飯嶋和一(いいじま・かずいち)

1952年山形県生まれ。83年「プロミスト・ランド」で小説現代新人賞を受賞しデビュー。88年『汝ふたたび故郷へ帰れず』で文藝賞、2008年『出星前夜』で大佛次郎賞、15年『狗賓童子の島』で司馬遼󠄁太郎賞を受賞。18年刊行の最新作『星夜航行』は、第12回舟橋聖一賞を受賞。

【著者インタビュー】泉 麻人『冗談音楽の怪人・三木鶏郎 ラジオとCMソングの戦後史』/日本のポップカルチャーの元祖、初の評伝!
文学・アートの世界を変えたボードレールのすごさを知る3選