◇長編小説◇飯嶋和一「北斗の星紋」第2回 前編
一揆の禁令は、二月末の江戸にほど近い多摩(たま)・入間(いるま)両郡での打ちこわし騒動を受けてのことだと思われた。前年の冷夏と災害による大凶作は、米・雑穀類の高騰を招き、昨年三月のほぼ二倍にもなり、銭百文で五合からせいぜい六合しか買えない状況が江戸市中でも続いていた。
「百相場(ひゃくそうば)」では、百文で米一升以上買えれば天下泰平、百文につき七、八合では暮らしが窮屈になり、五、六合しか買えなくなれば打ちこわし騒動が起こるものとされていた。すでに庶民の暮らしは限界まで追い詰められていた。
四月二十七日、加瀬屋伝次郎は、二月末の村山打ちこわし騒動が詳しく書かれた「読売(よみうり)」を手に入れた。
芝神明宮(しんめいぐう)の境内で着流しに編笠をかぶった二人組が古着売りや笊(ざる)・味噌漉(みそこ)し売りなどの行商人に混じって「さあ大変ダァ」の呼び声を響かせていた。
この日の読売は、去る四月十六日の真夜中に起こった新吉原遊廓全焼の続報だった。焼け出された茶屋の仮宅先を報じていた。
読売は火事や災害の速報を一枚刷りで売るのを常としたが、「ほかにはないのか」と問えば、人を見て特別の客には少し離れた所で荷を広げている小間物売りなどに託し、お上(かみ)に憚(はばか)られるものをそっと売ったりもした。
この日も、伝次郎が読売に当たりをつけると、編笠の下の声が「旦那、浅草紙(あさくさがみ)などはいかがですか」と返してきた。そこで、浅草紙を売っている者の所へ足を向け、漉(す)き返し紙を一束買って、「読売の反古(ほご)はないかい」と問いかけると、四枚つづりの読売を寄こした。しめて二十五文だという言い値だったが三十文を浅草紙売りに手渡した。
ともすれば幕政批判につながる読売を統制するため、幕府は延宝元年(一六七三)に規制の御触れを版木屋に出し、政治向きはもちろん諸人に迷惑を及ぼすこと、また奇怪事の出版は町奉行所へ届け許可を受けなくてはならないと通達した。無断で読売を版木に乗せて売れば厳罰に処するとの御触れに、版木屋も自粛のため仲間組合を設けたものの、お上の許しを受けた読売など、巷(ちまた)のたわけた噂話も同然で一文も出す価値はない。お上の禁ずる事件や内幕を暴き、悪政を指弾し、無告の民の声を代弁することこそが読売の本分で、誰が書きどこで刷ったものかわからない無許可のそれは、得体の知れない者たちの手によって絶えず書かれ秘(ひそ)かに出まわっていた。
田沼山城守が江戸城内で斬殺される一月ほど前、前年秋の大凶作を背景に近郊の武蔵国(むさしのくに)多摩郡(ごおり)村山郷で一揆騒乱が引き起こされた。日本橋からわずか一日の距離しかない郷村(ごうそん)での打ちこわし騒動は、南北両町奉行所の同心十名ずつが、一揆の主導者捕縛のため八丁堀(はっちょうぼり)から騎馬で出張(でば)る騒ぎとなった。
村山での打ちこわし騒動を青梅(おうめ)村の喜八という者が刷り物にして近隣の村々に配ったがために、その喜八も町奉行所同心に捕えられ小伝馬町(こでんまちょう)送りになったという話は伝次郎も耳にしていた。喜八という者も、おそらく読売商いの一人で、伝次郎が手に入れた読売はその者が書き記したものか、それをもとにしたものだろうと思われた。
多摩郡羽村(はねむら)の名主・宇助、組頭の伝兵衛、百姓代(ひゃくしょうだい)の太郎右衛門、この村方三役が顔を合わせ、飢餓に瀕する村民をいかに救うかとの話になった。組頭の伝兵衛は、「我ら老衰の身、七十余歳にもなりますれば、もはや今生を生き過ぎました。我々が頭取(とうどり)となって諸人の難儀を救いましょう」と言い出し、凶作続きで庶民が飢えに苦しむなか米穀を買い貯めている中藤(なかとう)村山王前(さんのうまえ)の文右衛門(ぶんえもん)らを打ちこわす腹を固めた。むろん一揆の頭取となる三人は死罪覚悟である。そして、千川(せんかわ)上水の陣屋にて張り紙をしたため、近隣四十か村に張り回ったのが騒動の発端だ、という。