◇長編小説◇飯嶋和一「北斗の星紋」第2回 前編
真夜中に二万余もの一揆衆が地響きを立てて押し寄せ、門を固めていた文右衛門の作男らも胆を潰し、鉄砲や槍を放り出して屋敷から逃げ出すしかなかった。
一揆衆は屋敷の表と裏に分かれ、長屋門前で芝木を燃やし鯨波(とき)の声を上げると大槌で長屋門の木戸を打ち破り、敷地内になだれ込んだ。文右衛門の居宅を始め、穀蔵、金蔵、油小屋、炭小屋、物置まで次々と打ち破り、雨戸や戸障子、鴨居を切っては広庭の火に投げ込み、米俵や雑穀の叺(かます)を運び出し切り裂いては火に投じた。家財諸道具も粉々に打ち砕いた。ところが、金蔵の内に文右衛門が貯め置いた金銭や質(しち)物類が見当たらなかった。山釣(やまつり)の集落に文右衛門の親族で五左衛門なる者がおり、質物と帳面はその家に移したとの報せが入った。
一揆衆はすぐさま五左衛門宅に向かい、戸前を破って文右衛門が隠し置いた質物の呉服類や生糸、帳面、諸道具類を引き出し、すべて焼き捨てた。金銭はぶちまけられる先から持ち去られた。質屋友七の家も襲われ、ここも土蔵を破られ質物や帳面をすべて焼かれ金銭を奪われた。文右衛門と友七の居宅は斧と鋸で柱をすべて切断され、太綱を屋根にかけて引き崩された。
内野村名主の佐兵衛の家までも、家財道具はもとより衣類、鍋釜の類まで火に投じられ、銭箱の金銭は残らず持ち去られた。名主佐兵衛は、米穀類の買い貯めなど一切していなかったが、安永年間に村山郷の丸山台という芝地を新田にすべく幕府に願い出て許され、分割して富有の者にすべて売り渡した。しかし丸山台の芝地は、以前から貧農たちが肥料や飼料として秣草(まぐさ)を刈る貴重な場で、それを一方的に奪い取られた貧農たちの恨みによる打ちこわしだった。
夜明け近く、一揆衆は高木村の庄兵衛宅に向かい、蔵に蓄えられていた俵と叺を広庭に運び出し切り裂いては米穀や雑穀をぶちまけ、大樽のたがを切り落として油や酒、醤油、味噌を流出させ広庭一面泥沼のごとくとなした。
日付の替わった二月二十九日明け六ツ(午前六時)、村山郷で五軒を打ちこわした一揆衆は一斉に散開して姿を消した。
中藤村文右衛門と高木村庄兵衛の二軒で、約三千俵の米穀、金高にして五千両近い質物が焼き捨てられ、油や酒、醤油などの樽は百余が切り流された。粉々にされた諸道具類は山をなし、金銭はすべて持ち去られた。
三月二日、両町奉行所の小野田大吉ら同心二十人は、内藤新宿を経て甲州街道を西進し、同日夕、多摩郡の高木村と中藤村に到着した。
翌三日、小野田大吉ら両町奉行所同心は、多摩郡羽村で名主宇助、組頭伝兵衛、百姓代太郎右衛門の三人を捕縛したのを皮切りに、数日を費やして多摩・入間両郡の各村を駆け回り、一連の打ちこわしを主導したとして六十三名を捕えた。そして鶤鶏籠(とうまるかご)を連ねさせて小伝馬町牢屋敷へ次々と送った。
その六十三を数える一揆の主導者たちは、『牢内のひどい暮らしと一揆頭取を特定するための拷問によって、この二月でそのほとんどが命を落とした』と読売は結んでいた。
齢(よわい)七十を過ぎていたという羽村の名主宇助、組頭伝兵衛、百姓代太郎右衛門らも、小伝馬町牢屋敷の大牢でおそらくは息を引き取ったものだろう。だが、御禁制の読売によって義民列伝にその名をとどめることとなった。
(後編へつづく)
〈「STORY BOX」2019年4月号掲載〉