◇長編小説◇飯嶋和一「北斗の星紋」第2回 前編

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庶民の間で募る田沼意次への不満。加瀬屋伝次郎は村山打ちこわし騒動を知り…

 太田村での鋳造が開始されると同時に銭相場は下落し始め、翌明和六年(一七六九)には、金一両に対する銭価は四貫四百十文から五貫十文へと下落を続け、五貫文の大台をまず割り込んだ。そして、明和八年(一七七一)、銭相場は五貫二百四十五文から五貫五百文まで下がった。水戸藩領の八割に当たる民はもっぱら銭使いで暮らし、銭相場の下落は彼らの暮らしを直撃した。常と変わらず早朝から夜遅くまで働いてこれまでと同額の銭を稼いでも、お上の勝手な増鋳のために稼ぎの実が減る一方では、やり場のない怒りが募るばかりとなる。

 明和八年三月二十九日夜、銭安相場に困窮した水戸北領の農民数千人は、静(しず)神社の祭礼を好機として神輿(みこし)を掲げ、太田村の鋳造場に突入した。炉をひとつ残らず破壊し建物に火を放って鋳造場を全焼させた。

 水戸藩は、貧農に五百貫文の銭を分配してなだめ、鋳造場を再建して鋳銭を再開したが、明和九年(一七七二)三月、またしても太田村周辺で一揆による暴動が起きた。同年十月、幕府は鋳造停止令を出し、水戸藩も仕方なくそれに従った。

 その後も下落を続けた銭相場は、安永七年(一七七八)にはついに五貫七百文から六貫六十文にいたるという異常な銭安の事態となった。

 田沼意次が幕府の全権を握ったのは安永九年(一七八〇)のことで、その年八月、大坂に鉄座、江戸・京・大坂に真鍮座を設置した。鉄も真鍮も、かつての銅に替わる銭の素材である。お上は、各座からの運上金がほしいばかりに銭の増鋳を続け、下々の民は襤(ぼろ)を着て飢え死にすればよいと言っているようなものだった。

 翌天明元年(一七八一)、金一両に対する銭価は六貫二百八十文から六貫五百二十文まで落ち込み、この天明四年まで異常な銭安相場に落ちたまま推移していた。そのうえ前年の大凶作を受けた米穀の高値が、輪をかけて庶民の暮らしをいよいよ絶望的なものにしていた。

 庶民の願いは、ただ田沼意次の時代が終わってくれることだった。息子の田沼山城守意知が後を引き継ぐことになれば、現世地獄が以後も止めどなく続くことになる。田沼山城守が殺され、あとは父意次が重病となるか死んでくれさえすれば田沼の時代は確実に終わることが決まった。

 庶民が田沼山城守を斬殺した佐野善左衛門を「世直し大明神」とあがめ、佐野の菩提寺(ぼだいじ)のある浅草へ周辺諸国からまで墓参の群衆が押し寄せているのはその理由に因っていた。

 

     五
 

 天明四年四月二十六日、幕府は、米穀の買い貯めと一揆打ちこわしの禁令を発した。

『諸国において米穀が近年高値になっているが、去年から特に値が上がり、卑賤(ひせん)の者たちがたいそう困窮している。米穀商はもちろん、米商売にかかわらぬ者においても、米穀を過剰に買い貯えることを禁ずる。町場においても在所においても、当年の米を買い貯めすることなく、余分の米はその地ばかりか他所に売り出させるべきである。
 また、諸国からの米を勝手に途中で売買することは禁ずる。もし他の困窮をかえりみず、余分の米を買い貯めた者や、正規の商人を通さず勝手に売買した者は、取り調べて厳重に処罰する。
 願いごとのある場合も、訴え出るべき所管を通さず、大勢を集め、数をたのんで町村の人家を打ちこわしたり、さまざまの非道をはたらくならば、厳しく罰せられることになる。よって町村の地役人や五人組の者どもは、よくよく気を配り、そのような気配がある場合には、すみやかに訴え出る必要がある。もし知りながらなおざりにした場合には、全員同罪として処罰する』

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飯嶋和一(いいじま・かずいち)

1952年山形県生まれ。83年「プロミスト・ランド」で小説現代新人賞を受賞しデビュー。88年『汝ふたたび故郷へ帰れず』で文藝賞、2008年『出星前夜』で大佛次郎賞、15年『狗賓童子の島』で司馬遼󠄁太郎賞を受賞。18年刊行の最新作『星夜航行』は、第12回舟橋聖一賞を受賞。

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