◇長編小説◇飯嶋和一「北斗の星紋」第2回 後編
オランダ渡来の腐食銅版画は、蠟(ろう)を塗った銅板に針状の細刃で細密な絵を描き、「スタルキ・ワーテル」という液にひたして銅板を彫(ほ)らせ、絞木(しめぎ)で圧して摺り上げるのだ、と丸屋は話した。確かに川面のさざ波や、はるか遠くに見える針の先ほどの人物までが丹念に描かれていた。
西洋では以前からこの手法で銅版画を作るのが盛んに行われているらしかった。伝次郎は、湯島坂下町の古物道具屋「八吉(はっきつ)」の主、伊奈次(いなじ)から西洋の銅版画なるものについて聞いていた。
伊奈次の店は、表向きには絵皿や茶碗、煙草(たばこ)盆から茶道具や掛け軸などまでのやや高価な古物ばかりを商っていた。だが、取り外し式の梯子段を上った二階の二間には、どこから仕入れて来るものか、西洋の地図や異国の町の景色が描かれたものが置いてあった。その中には見る者が見れば禁令に触れると分かるキリシタンの宗教画までがあった。そのほとんどが色のない黒い線だけで濃淡を作り、丹念に描かれていた。伝次郎が買い入れたのは、西洋の紙に刷られた川辺の景色で、四角い形の高い塔と瓦葺きの低い家々、遠くになだらかな山並みと林が描かれたものだった。桟橋には川船らしきものが繋がれ、水辺で衣類を洗う女が描かれていた。
「これは伊太利(イタリア)の画です。銅の板に蠟を塗り、針で絵を描き、何でも強水(きょうすい)とかいう薬水に漬けると版木ができると聞きました。その薬水は人の骨まで溶かすほど強いそうです」と伊奈次は言った。
丸屋がその「強水」をどこで手に入れたものかわからなかったが、丸屋がオランダ語を習っているという大槻玄沢(おおつきげんたく)あたりのつてによるものだろうと思われた。大槻玄沢は、幕府の蘭方医・桂川甫周(かつらがわほしゅう)と親交があった。
『三囲景図』完成の折、伝次郎が心打たれたのは、丸屋の言うようなこれまで本邦で誰もなしえなかった西洋の手法を使って銅版画を作り上げたことだけではなかった。絵師の丸屋勝三郎が、たった一人で、下絵を描き、版木を彫り、摺り上げたという事実の新しさだった。これから先、丸屋勝三郎と似たような、創作欲に富み自立心の強い絵師は、おのれの描きたい画題を誰憚ることなく選び、一人で版画を仕上げ、何枚も作り売り出すことができる。丸屋のあとに続く者も現われるに違いなかった。
錦絵といえば、絵師が下絵を描き、彫師(ほりし)が板を彫り、摺師(すりし)がそれを摺り上げて仕上げる。何人もの熟練した職人がかかわって、やっと一枚の錦絵を作り上げるものだった。その元手は錦絵を企画し売り出して儲けようとする版元がすべて出すことになる。何を描くのか、その題材も当然のことながら版元が決めることになる。
そこでの絵師は、あくまでも下職人の一人で、版下描きでしかなく、決められた画題で注文されたとおりの作業をこなすだけの話だった。当然、得られる手間賃もわずかなものとなる。創作意欲が強く、加えて自尊心と功名心も人に倍して高い丸屋が、銭勘定しか頭にない卑俗な版元ごときの支配にいつまでも甘んじているのは難しかった。