◇長編小説◇飯嶋和一「北斗の星紋」第5回 前編
天明五年(一七八五)二月六日、松本秀持は田沼意次の同意を受け、蝦夷地探索船の航路に当たる仙台・南部・八戸・津軽の諸藩と松前藩に全面的な助勢を行うよう依頼の文書を送った。
ところが、それから間もなくして、伊勢大湊(いせおおみなと/宮川・五十鈴川河口)で苫屋に建造させていた蝦夷地探索船二隻の品川到着が、二ヶ月ほど遅れることが知らされた。
蝦夷地の夏は短く、船の到着が二ヶ月延びれば現地で探索調査できるのは九十日かそこらしかない。計画では、西蝦夷地探索隊はカラフト(樺太)に渡り、オロシャとの交易実態と北方航路を確かめ、また、東蝦夷地探索隊はクナシリ(国後)に拠点を置き、ラッコ島(ウルップ島)へ渡り、交易経路の調査に当たる手はずとなっていた。遅くとも四月には、西蝦夷地探索隊はソウヤ(宗谷)、東蝦夷地探索隊はクナシリに到着していなければならなかった。
このたびの探索方を中心となって主導するよう命じられた佐藤玄六郎は、松本秀持と合議のうえ、蝦夷地探索隊が二月中旬に江戸を発ち陸路で松前へ向かうことを決めた。
佐藤玄六郎、山口鉄五郎、皆川沖右衛門、青嶋俊蔵、庵原(いはら)弥六の普請役五人とその下役、そして竿取として加わった最上徳内(もがみとくない)らは三月半ばに松前城下で集結することを決め、それぞれが目立たぬよう諸国巡りの旅人を装って江戸を発し、北へ向かった。
十六
天明五年五月八日、またも両替商以外の者による両替を禁止する触れが出された。
前年(一七八四)十一月にも、江戸市中の両替商を六百四十三株に定め、株を持たない一般商人の両替を禁じたばかりだった。両替商株仲間からの冥加金(みょうがきん)徴収を実施するには、株を持たない者の両替を厳禁しなくては意味がなかった。
ところがこのところ、銭の相場は、金一両に対して銭(ぜに)四貫文の公定価格から大幅に下落し、天明元年以降は六貫文台に落ち込んだままだった。金で支払う地代や家賃などを除けば、町衆がもっぱら買い物につかうのは銭である。おかみが定めた両替商を通せば、そのたびに金一両につき三十文もの手数料を取られる。そこで庶民はささやかな暮らしを守るため、金銀貨を両替する時には店でわずか数文の安物を買い入れ大量の釣り銭を受ける。その釣り銭両替が当たり前となっていた。いくら禁令を出したところで、生きる営みの前では逆に抜け道を作らせるようなものだった。
六月十日、町奉行は、米価を下げ、米の買い占めや買いだめを禁ずる触れを出した。
大飢饉の後は、種米まで食い尽くすことになり、元の収穫に復するには最低数年はかかる。むしろこれを好機として買い占めに走る商人は後を絶たず、米の値が下がるはずはなかった。加えて銭安による異常な物価高は、庶民の困窮に輪をかける結果をまねいていた。
去年の冬以来、信州は松代(まつしろ)藩領で一揆による強訴や暴動が繰り返され、また泉州(せんしゅう)泉(いずみ)郡の旗本領、駿州(すんしゅう)清水湊の幕府領、出羽村山郡佐倉藩領などでの打ちこわしの報も、江戸に届いた。江戸でも打ちこわしの噂は絶えず流され、ここまで追い詰められればいつ暴動が起きても不思議はなかった。
(後編へつづく)
〈「STORY BOX」2019年7月号掲載〉