◇長編小説◇飯嶋和一「北斗の星紋」第4回 後編

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年の暮れの江戸を大火が襲う。幕府は北方交易開拓の準備を進めていた。

 

     十四
 

 田沼意次のもと各地に開発を推し進める勘定奉行の松本伊豆守秀持(ひでもち)は、知行五百石、当年五十六歳を数えた。色浅黒く年齢のわりには髪黒々とした小男で、どこか眠たげな茫洋とした顔つきと口数が少ないながら不思議に影の濃い人物だった。御天守番をつとめる御家人の軽輩から勘定奉行まで登りつめるという異例の出世をとげた。

 この時代、幕府の役職といえば家格や家筋でほぼ固まり、個人の才覚などは問われる機会がないものと化していた。唯一の例外が勘定奉行所だった。幕府の財政をつかさどるこの役所は、最も重要な財政と経済をになうがゆえに、経理の才覚を備え、支出削減と収入増加の方策を生み出せる能力を必要とした。勘定奉行所は、八代将軍吉宗(よしむね)の享保時代より幕府で最も重要な役所となり、財政と経済の課題ばかりか評定所の司法にまでかかわるようになっていた。

 松本秀持が勘定奉行に昇進した安永八年(一七七九)と翌九年は米も金も黒字だった。ところが、天明元年(一七八一)からこの四年間は、米も金も一転して財政赤字に陥った。大凶作と天災の相次いだ一昨年(一七八三)には、米が六万五千四百七十六石、金も三十万四十九両という大幅な赤字を算出した。昨年天明四年(一七八四)の赤字も、一昨年同様のひどい数字となって表れるに違いなかった。

 これほど悪化した財政を建て直すためには慎重に対策を構えている余地はなかった。これまで手つかずに放置され、しかも確実な収入が見込まれるものが必要だった。

 俵物用の海産物やニシン粕(かす)などの魚肥を産出し、そして広大な耕作可能の土地を有する蝦夷島が松本秀持の視野に入った。松本秀持は、悪化する一方の幕府財政を黒字に転換する切り札として蝦夷地開発と北方交易路の開拓を選択し、田沼意次もそれを是(ぜ)とした。

 田沼意次の苦境は、松本秀持にも及んだ。田沼家との関係は、秀持が幕府奥医師の千賀道隆(せんがどうりゅう)の息子を養子に迎えたことでいっそう緊密になっていた。千賀道隆は田沼意次の愛妾「神田お部屋様」の仮親となった人物である。松本秀持が勘定吟味役から勘定奉行に昇進したのは、千賀道隆の息子を養子にした縁故によるとの陰口もささやかれた。松本秀持も頼みの綱としていた田沼山城守が前年三月に三十六歳の若さで暗殺され、田沼意次が健在であるうちに財政を根本から立て直す必要に迫られていた。

 松本秀持配下の勘定組頭に土山宗次郎がいた。牛込御細工(おさいく)町に「酔月楼(すいげつろう)」なる豪邸を建て、大田南畝(おおたなんぽ)らの文人を集めて酒宴を繰り広げたり、新吉原の高級遊女を身請けしたりの分不相応な羽振りをきかせていた。土山宗次郎がそんな暮らしができるのは、土山の代理人として禄米(ろくまい)を受け取る札差(ふださし)が、蔵前の大口屋(おおぐちや)であるためだった。大口屋平十郎は松前で蝦夷地物産を引き受け、それを江戸に廻送して莫大な利益を上げていた。

 大口屋と土山宗次郎を結びつけた線上に湊源左衛門(みなとげんざえもん)という人物がいた。松前藩の名族出身、しかも元勘定奉行だった藩の重鎮で、安永九年(一七八〇)に場所請け負いの本土商人がらみの事件で松前から追放され、江戸に隠れ棲んでいた。当然のことながら松前藩の財政や北方交易の内実によく通じていた。『赤蝦夷風説考(あかえぞふうせつこう)』を著した工藤平助(くどうへいすけ)も、実は湊源左衛門からほとんどの情報を得ていた。

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飯嶋和一(いいじま・かずいち)

1952年山形県生まれ。83年「プロミスト・ランド」で小説現代新人賞を受賞しデビュー。88年『汝ふたたび故郷へ帰れず』で文藝賞、2008年『出星前夜』で大佛次郎賞、15年『狗賓童子の島』で司馬遼󠄁太郎賞を受賞。18年刊行の最新作『星夜航行』は、第12回舟橋聖一賞を受賞。

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