◇長編小説◇飯嶋和一「北斗の星紋」第5回 前編
東照宮家康の神威は、武家国家を成立させるうえで不可欠のものだった。大多数の農民や町人が一斉蜂起すれば、武家の力ではとても押さえきれるものではない。東照宮の神威を背景にするがゆえに武家政権は存続しており、それを毀損(きそん)するようなことになれば武家支配による国体さえ崩壊しかねない。田沼意次に対する譜代門閥大名の反発は、何よりその危機感にあった。
意次は、農民からの年貢増徴は限界だとして商人の株仲間からの運上金徴収に踏み込んだ。その結果、金銭がすべてを支配するかのごとき世の風潮をまねき、商人を増長させて風紀紊乱(ふうきびんらん)は目を覆わんばかりの有様となった。
確かに農民の年貢増徴は止められたものの、それで平穏な世の中になったかといえば長くは続かなかった。天明改元後の天候不順による凶作は、富める者と貧しき者の差を露わにし、去る天明三年(一七八三)だけでも五十件ちかい一揆騒乱が全国で引き起こされていた。農民一揆と打ちこわし騒動は全国に波及し、かえって世の混乱をまねいている印象ばかりが強まった。要するに田沼意次の施政は、世の中の秩序を破壊し、財政難と騒乱を呼び込み、飢えと疫病を全国に蔓延させただけである。それが田沼政権に対する昨今世情の評価だった。
老中評議の場に松本秀持からの献策を持ち込めば何が起こるかわかったものではなかった。江戸城内で田沼山城守(やましろのかみ)が斬りつけられるのをその場にいた大勢がただ眺めていた。田沼政権後のことを考え、誰かが保身に走れば雪崩をうって否決される。勝手方老中の水野出羽守忠友(でわのかみただとも)は、意次の四男忠徳(ただのり)を養子にし自らの後継者としていたが、譜代の名門に変わりはなく彼にも秘しておく必要がある。
苫屋久兵衛に対する三千両の貸し出しと蝦夷地での試し売買の実施は老中評議に持ち出せない。意次は御用取次(ごようとりつぎ)の稲葉越前守正明と入念に示し合わせ、将軍に内奏して上様の直裁を仰ぐしかないと決断した。幸いにして将軍家治(いえはる)の意次に対する信頼は少しも揺らいでいなかった。
天明四年十一月六日、田沼意次は松本秀持を呼び、「伺いのとおりにせよ」と告げた。蝦夷地探索調査が将軍家治によって認められた。幕府勘定所から苫屋への三千両という巨額融資も、幕府御用船による蝦夷地での試し売買の実施も、将軍の決裁によってすべて許可された。
意次はこの年六十六歳を数えた。髪はすっかり白く、目尻や首まわりの皺がさすがに年齢を感じさせたものの、細面の端正な顔だちは生来の気品を漂わせ、確信に満ちて何ら動揺する気配も見せなかった。この蝦夷地探索調査を知っているのは、最高幕閣の老中のうちで田沼意次一人だけであり、あとは御用取次の稲葉正明と松本秀持しかいない。老中評議の決定を経ないということは、苫屋久兵衛に対する三千両の貸し出しは勘定奉行松本秀持個人による一時的融資であり、試し売買も松本秀持と松前家との内談として決行することとなる。
いかなる形であれ蝦夷地探索と試し売買が失敗すれば、その責任はすべて田沼意次が背負い、その時点で意次の政治生命は絶たれる。むろんそれを実行した松本秀持もただでは済まされない。知行(ちぎょう)五百石のほとんどを召し上げられ、悪く行けば改易、良くても小普請組(こぶしんぐみ)の用済み部屋送りとされることは明らかだった。