【池上彰と学ぶ日本の総理SELECT】総理のプロフィール
池上彰が、歴代の総理大臣について詳しく紹介する連載の4回目。東北が生んだ平民宰相、原敬について解説します。
第4回
第19代内閣総理大臣
原敬 1856年(安政3)~1921年(大正10)
Data 原敬
生没年 1856年(安政3)2月9日~1921年(大正10)11月4日
総理任期 1918年(大正7)9月29日~21年(大正10)11月4日
通算日数 1133日
所属政党 立憲政友会
出生地 岩手県盛岡市本宮(旧岩手郡本宮村)
出身校 司法省法学校(退学)
選挙区 衆議院岩手県盛岡市選挙区
歴任大臣 逓信大臣・内務大臣・司法大臣
幼名・号 健次郎(幼名)・一山・逸山
ニックネーム 平民宰相・白頭宰相
墓 所 岩手県盛岡市大慈寺町の大慈寺
藩閥から政党へ!政治を変えた凄腕総理
日本で最初の本格的な政党内閣を樹立したのが、原敬です。原は自らが総裁をつとめる立憲政友会を、薩長を中心とした藩閥勢力に対抗できる強い政党に育てあげ、政友会のメンバーを中心とする内閣を組織します。その抜群の指導力と議会運営の巧みさは、歴代の総理のなかでも抜きん出ていました。いっぽうで、藩閥と正面対決せずに話し合いで政局を運営する姿勢は「妥協的政治家」といわれ、議会では数の論理をもって普通選挙法案に反対したため、「保守的独裁者」という批判も受けました。原は暗殺されますが、在任中に死去した初めての総理でもあります。
原敬はどんな政治家か 池上流3つのポイント
1 東北出身の平民宰相
原は、明治新政府と対立した「賊軍」の盛岡藩出身です。当時の族籍(戸籍に記す身分)は、華族(公家・大名や維新の功労者)・士族(武士)・平民(それ以外の一般人)に分かれており、原は上級武士の出身でしたが、士族から平民になりました。はじめての平民出身の総理であることから、大多数が平民であった国民は、原を「平民宰相」と呼んで歓迎しました。
2 史上最強の政党総裁
原は立憲政友会の第3代総裁に就任すると、党の勢力拡大に執念を燃やし、「一糸乱れぬ政友会」といわれる結束力のある政党を組織します。第1次・第2次西園寺公望内閣と第1次山本権兵衛内閣では内務大臣に就任し、地方行政・警察組織を改革することによって、藩閥の勢力を削いでいきました。政党の組織強化と藩閥の弱体化があってはじめて、本格的な政党内閣は実現したのです。
3 積極的公共事業の開始
地方の発展こそ、国家の発展につながると考えた原は、鉄道や学校を地方にさかんに建設する、積極的な公共事業政策を進めました。いっぽうで原は、地方の名士や財界人を党員にスカウトします。野党はこれを、立憲政友会への協力を条件に恩恵を与える「利益誘導型」の政治と批判しました。原の政治手法は、戦後の自由民主党政治のモデルともいわれています。
原敬の名言
日本には鉄のごとき国民性が存在する。
鉄は堅いが、鍛錬され形を変えることもできる。
鉄と同じように、日本も旧来の思想の上に
外来の進歩思想を調和させていかなければならない
― 1920年の論文「新日本を旧日本の上に」より
わけ入りし 霞の奥も 霞かな
―暗殺された1921年の俳句。故郷を出てから50年がたち、老境に入った心情を詠んでいる。
余は殖利の考なしたる事なし。故に多分の財産なし。
去りとて利益さえ考なければ損失する愚もなく
今や一文の借金も之なし。
余の遺族子孫もこの心掛けあらば永く安全なるべし
―家族にむけた遺言より
揮毫
原敬書「無私 戊午晩春 逸山々人」
原敬記念館蔵
無私とは私欲・私心がないこと。原が秋に総理大臣に就任する年、1918年(大正7)晩春の揮毫。右端の引首印(いんしゅいん)には「全吾真」と刻まれており、「わが真を全うす」(自分は自分の真を貫く)という意味である。
人間力
◆ 硬軟おりまぜた交渉の名人
外交官時代に清国の李鴻章など大物と折衝した経験から、原は敵対する人物とも柔軟に交渉することに長けていた。山縣有朋ははじめ原を嫌っていたが、原が山縣の面子を立てながら政策を立案したため、だんだんと腹を割って話すようになる。いっぽう、議会では質問者に激しく反論し、しまいには質問者が辟易して質疑を投げだすほどだった。また、閣僚が答弁に詰まると、率先して自分が交代し答弁することもあった。
◆ 面倒見のよさで人身掌握
原は陳情など、毎日数十人の訪問客に丁寧に応対した。人と話すときは名刺と相手を交互に見て、名前と顔を記憶していたという。地方に遊説に行く際も、その土地の有力者の名や過去の出来事について明確に答えることができ、支援者を感激させた。また、人が資金を求めに来たときは、その額より多めに渡す気づかいをみせた。
◆ 金は集めるが私腹は肥やさず
原が財閥や地方財界とパイプをつくったのは、党の勢力拡大と政治資金を集めるためで、蓄財のためではなかった。党の金と自分の金を厳格に区別しており、原が死んだ際には、遺書の指示によって、党の資金は速やかに後継総裁の高橋是清に引き継がれた。由縁のない贈り物は決して受け取らないなど、原は公私ともに潔白であるよう、細心の注意を怠らなかった。
(「池上彰と学ぶ日本の総理20」より)
初出:P+D MAGAZINE(2017/08/04)