【池上彰と学ぶ日本の総理SELECT】総理のプロフィール
池上彰が、歴代の総理大臣について詳しく紹介する連載の19回目。砲兵から薩摩閥の頂点へ。「黒田清隆」の業績について解説します。
第19回
第2代内閣総理大臣
黒田清隆
1840年(天保11)~1900年(明治33)
Data 黒田清隆
生没年 1840年(天保11)10月16日~1900年(明治33)8月23日
総理任期 1888年(明治21)4月30日~89年(明治22)10月25日
通算日数 544日
出生地 鹿児島市新屋敷町(旧薩摩国鹿児島城下新屋敷)
出身校 造士館
歴任大臣 農商務大臣・逓信大臣
墓 所 東京都港区の青山霊園
黒田清隆はどんな政治家か
1.不平等条約の改正
江戸幕府が西欧諸国と結んだ条約は、軍事力や経済力の差から、日本に不利な内容でした。明治維新以降、明治新政府はこの不平等条約の改正をめざし、交渉を重ねていきます。
黒田清隆内閣の最大の課題もやはり条約改正でした。黒田は外務大臣に外交通の大隈重信を起用し、改正実現に向けて突き進みます。一時はうまくいくかと思われたのですが、大隈の改正案の内容と、黒田の手法に異議が続出して成功しませんでした。
2.屯田兵制度を創設
平時は農業を営みつつ軍事訓練を行ない、有事になれば軍隊として戦うのが屯田兵です。これを北海道に設置すべしと説いたのは、ロシアに脅威を感じていた西郷隆盛といわれています。開拓次官についた黒田は、1873年(明治6)、屯田兵制度を建議。翌年には札幌郊外に200戸の兵屋を建設して、965人を移住させました。北海道開拓の歴史は黒田の屯田兵によって本格的に始まったのです。
3.超然主義内閣
黒田が総理に就任した2年後の1890年(明治23)に、はじめての衆議院選挙と議会開設が予定されていました。すでに複数の政党は存在しており、政府はこれらの政党との関係を考えざるを得なかったのです。総理大臣となった黒田は、鹿鳴館に府県知事を集め、政府は政党から超然としていなければならないと述べます。政府は全政党と一定の距離をとるという意味ですが、黒田のこの演説から「超然主義」という言葉が生まれました。
黒田清隆の名言
榎本を殺すのなら、そんな新政府、
自分は辞めて坊主になる。
―― 箱館戦争で降伏した榎本武揚の処分をめぐり、黒田が西郷隆盛に強硬嘆願
大隈どん、貴君の片足を失ったのは、
私の片足を失ったより残念じゃ。
――爆弾テロ事件で右足を切断した大隈重信を見舞った黒田の言葉
黒田清隆の揮毫
黒田清隆筆「敬譲則不競於物」
維新ふるさと館蔵
中国の史書『周書』に見える言葉で、「へりくだって人を敬えば争うことはない」という意味。人との調和を重んじた黒田にふさわしい。
黒田清隆の人間力
卓抜した人心掌握術と強い意志力――黒田清隆
総理大臣としての黒田清隆は、伊藤博文などに比べて政策立案能力は劣っていた。だが、「明治14年の政変」で敵対した大隈重信への入閣交渉、民党の旗頭だった後藤象二郎の抱き込みなど、一対一の説得においては無類の能力を示した。必要があれば、たとえ政敵であっても誠意をもって説得し、協力を約束させる。独特の人間的魅力のある政治家だった。
調整能力に富む一方で、黒田は頑として意志を曲げない硬骨漢でもあった。開拓使官有物払下げ事件では、意志を曲げずに辞任に追い込まれている。総理時代の条約改正事業でも、周囲の反対を押し切って突き進んだ。政策実行に関しては、猪突猛進ともいえる突破力を発揮したのである。
(「池上彰と学ぶ日本の総理15」より)
初出:P+D MAGAZINE(2017/11/17)