【池上彰と学ぶ日本の総理SELECT】総理のプロフィール
池上彰が、歴代の総理大臣について詳しく紹介する連載の24回目。ビリケン宰相と呼ばれた「寺内正毅」について解説します。
第24回
第18代内閣総理大臣
寺内正毅
1852年(嘉永5)閏2月5日~1919年(大正8)11月3日
Data 寺内正毅
生没年 1852年(嘉永5)閏2月5日~1919年(大正8)11月3日
総理任期 1916年(大正5)10月9日~18年(大正7)9月29日
通算日数 721日
出生地 山口市平井(旧吉敷郡平川村)
出身校 陸軍戸山校教則課程
歴任大臣 陸軍大臣など
ニックネーム ビリケン宰相
墓 所 山口市宮野下の寺内家墓所
寺内正毅はどんな政治家か
1. 長州軍閥の大物
寺内正毅は長州藩士の家に生まれ、戊辰戦争および西南戦争に参加します。西南戦争で右手を負傷したため、第一線の部隊には出ず、軍政と軍の教育部門で重きをなしていきました。
1882年(明治15)、伏見宮家出身の閑院宮載仁親王に随行してフランス留学を経験。第1次桂、第1次西園寺、第2次桂という3代の内閣で陸軍大臣を務めます。大臣を続けながら韓国統監、韓国併合後の初代朝鮮総督を兼任し、山縣有朋、桂太郎に次ぐ、長州軍閥の大物になりました。
2. ビリケン宰相
幸福の神様といわれるビリケン像は、寺内が陸軍大臣のころ、アメリカから日本に伝わって広まりました。とんがり頭と、つり上がった目が特徴です。寺内の頭の形がこの像に似ているというので、皆が「ビリケン宰相」と渾名しました。
実は、ここには政治的な意味合いも込められています。護憲運動のあと、政党内閣が待望されたにもかかわらず、寺内内閣に政党員の入閣はありませんでした。「非立憲的な宰相」だという、批判の意味が入っているのです。
ビリケン像
3. 米騒動の収拾
米価の暴騰を受けて、1918年(大正7)7月、富山県魚津町(現魚津市)の漁師の主婦たちが米の売り惜しみに抗議し、販売を嘆願します。この米騒動は全国に広がり、約50日間にわたって暴動やデモが1道3府38県で起こりました。
政府側は暴利取締令を出しますが、米価抑制には効果がありません。癌を病んでいた寺内は、米価の低下と取り締まりの効果による騒動の鎮静化をみきわめて、退陣します。
寺内正毅の名言
富士山はどこより見ても玲瓏として雲に聳えている。
人間もかくのごとくいずれより見ても
清浄潔白でなければならぬ。
――晩年、富士山の絵を描きながら
寺内正毅の揮毫
寺内正毅筆「武徳惟神」
武道の徳は、神の御心そのもの、という意味。長く陸軍に籍を置いた寺内らしい書。
寺内正毅の人間力
♦指導の青鉛筆――寺内正毅
寺内正毅が陸軍士官学校の校長を務めていたとき、副官や生徒が書いた文書に、青鉛筆でことごとく修正を加えた。くやしがった生徒たちは「寺内校長の青鉛筆」と噂したが、それは向上を願っての指導であった。
「私が草案に訂正を加えるのは、必ずしも意に充たないためではない。感心すべき出来映えのものもあったが、君等を少しでも向上さしてやりたいと思い、訂正を加えているのだから、気を落とさず勉強しなければいけない」 朝鮮総督になり、総理大臣に就任しても、寺内は書類に青鉛筆をふるう。
(「池上彰と学ぶ日本の総理19」より)
初出:P+D MAGAZINE(2017/12/22)