◇長編小説◇日明 恩「水際守護神S」──第3話 Good boy! Good girl!〈後編〉
「麻薬探知犬が探知したときは、グッドボーイ! と大声で褒めて下さい」
「は?」
褒めて探知犬の志気を上げるのは理解出来る。だがハンドラーの役目だろう。
「東京外郵出張所では、その場にいる全員で褒めることになっているんです」
通関部門は広く、税関職員の数はゆうに三十名を超える。探知犬が何かを見つけたら、その全員で「グッドボーイ!」と大声を上げるということだ。かなりシュールな状況だ。
カゴ台車の一つを嗅ぎ終えたライクが隣へと移った。後ろ足で立ち上がり、上の段を嗅ぎ終えると、続けて下の段へと移る。小さな貨物を入れた青いプラスチック製のカゴの縁に両前足を掛けて頭を突っ込むようにして臭いを嗅いでいる。ライクが姿勢を戻した。隣の台車に行くと思いきや、その場にお座りした。
まさにその瞬間がやってきた。おくれを取るものかと大声で叫ぼうとする槌田の腕を英がつかんで「まだです」と止めた。
すぐさま検査官が駆け寄ってきて、青いカゴの中の貨物をすべて床に並べる。
「ライク、嗅いで」
ハンドラーの声に従って、ライクが床に広げられた貨物の一つ一つの臭いを嗅いでいく。
一センチに満たない厚みの茶色いマニラ封筒の臭いを嗅いだライクが、その場にお座りした。
「今です!」
槌田にタイミングを知らせた英は、すぐさま自分も大声で「グッドボーイ!」と叫んだ。その声は通関部門内の各所から上がる「グッドボーイ!」の連呼にかき消される。あわてて槌田も「グッドボーイ!」と声を上げた。作業の手を止める者、止めない者、人によってそれぞれではあるが、その場にいる全員が怪しい貨物を探知したライクを褒め讃えている。褒められたライクはしっぽをちぎれんばかりに振っていた。目もきらきらと輝いている。その姿を見た槌田は、前よりも大きな声で「グッドボーイ!」と叫んだ。
ひとしきりライクを褒めるグッドボーイの声は通関部門の中に響き渡り、自然と止んだ。
何事もなかったかのように、またそれぞれが自分の作業に戻る。めりはりの効いた職場の様子を、悪くないと槌田は思う。
麻薬探知犬が反応したのならば、調査部検察部門の出番だ。英と槌田は同時に足を踏み出した。
「ペルーからで届け先は東京江東区。受取人は外国名」
封筒を手にしていたのは韓国からのバーキンを見つけた岩重(いわしげ)だった。封筒は岩重の手によってX線検査に掛けられ、中身がディスプレイに映し出される。小さな四角形の物体がいくつも重なって見える。
「あー」と、岩重が声を上げたのと同時に、英も小さく息を吐いた。二人ともこの段階で中身の正体が分かったらしい。
岩重は封筒をX線検査機から取り出して、開封する。斜めにした封筒から二回りほど小さいターコイズブルーの封筒が滑り出て来た。表には黒い文字で「COCA PREMIUM TEA」と印刷されている。
「コカティーですね」
X線検査機のディスプレイに映し出された四角い物はティーバッグだった。
ペルーではコカ茶は違法ではなく一般的に流通している。その他にもコカの成分の含まれたキャンディやガム、クッキーなどのお菓子もある。
だが日本では麻薬及び向精神薬取締法の対象物であり、国内に持ち込むことは出来ない。現地で販売している物だから大丈夫だろうと、お土産として持ち帰ろうとするペルー帰りの旅行客もいるが、税関検査で見つかり次第、没収となる。知らずに購入し、持ち帰ろうとした場合は没収で済むが、売買を見越した数量であるなどの悪質な場合は逮捕に至る。
「全部で二十個か」
外袋を開封して、入っていたティーバッグを数えた岩重が数を発表した。
「外袋に開封したようなあともないし、シンプルに正規品を送ってきたみたいだな」
外袋を見ながら英が言う。
「東京在住の家族にペルーの親族が送ったってところですかね。送り人と受取人の苗字が同じなんで」
封書のラベルを槌田は確認する。確かに苗字は一緒だ。
「それじゃ、通達案件ってことで」
岩重が宣言した。大麻の実と同じくはがきで通達コースということだ。あとは受取人が権利放棄か、返送のどちらかを選び、実行されて終わりとなる。
この結果に拍子抜けすることはもはやない。大切なのは、見つけ出して国内に入れなかったことだからだ。
ふと見ると、ライクはまだ検査をしている最中だった。
「また見つけるかな?」
英の視線を感じた。その目の冷たさに槌田は気づく。見つかった方が良い、つまり麻薬の密輸があった方が良いと考えていると思われたのだ。あわてて「今度はおくれを取らないようにグッドボーイって言いたいと思ったんだ」と伝える。
英の目から冷たさが消えたのを確認して、槌田は安堵する。
「ところで一つ質問なんだが、雌のときはグッドガールなのか?」
麻薬探知犬のすべてが雄ではなく雌もいるはずだ。その場合はグッドガールと言うべきだろう。そこでふと思い返した。ライクの到着時に、「今日はライクです」というような紹介はされていない。それでも検査官たちは全員、「グッドボーイ!」と言っていた。ならば事前に今日くる麻薬探知犬とその性別を知っていたことになる。そこでまた槌田は思い出した。英は麻薬探知犬の名前を、よく会うからという理由で覚えていた。ならば、検査官たちも同じなのだろう。
「よく会うから覚えているってことか」
納得する槌田の横で「考えたこともありませんでした」と、英の声が聞こえる。
「すべてにグッドボーイと言うようにハンドラーから言われていて。言われてみれば、女の子もいるのに可哀想ですよね」
真顔で言われて槌田は困惑する。よく考えたら、ボーイとガールの意味を犬が認識しているとは思えない。グッドボーイは犬にとって二つの言葉ではなく、一つで褒め言葉として覚えているに違いない。
「余計なことを言った。雌雄関係なく、グッドボーイは褒め言葉として覚えさせたってだけだろう」
自分の考え違いを認めて話を終わらせようとした。だが英は引っかかってしまったらしい。腕を組んで考え込んでいる。
「でも、いいよな。あのグッドボーイって言うの。言われて犬も嬉しそうだったし」
「達成感は大切ですよね」
「褒められるのも、褒めるのも、どちらも気持ちいいしな」
結果を出して褒められる。結果を出したものを褒める。双方気分は良い。そこで槌田は閃いた。
「麻薬探知犬だけでなく、検査官たちが何かを見つけたときは褒めるのも良いかもしれないな」
良いアイディアだと思ったが、英からの返事がない。見ると、なんとも言えない表情で槌田を見つめている。
「ダメか?」
「頻度が」
一言で返された。その通りだと槌田は気づいた。摘発する度に叫んでいたら、グッドボーイ、グッドガールの声は、一日中止まずに響きつづけることになる。それでも、最前線で国内に違法な物を持ち込ませないために働いている同志を讃えたいという気持ちは変わらない。
「まぁ、確かにそうだけれど。でも俺は全員を褒め讃えたいよ。グッドボーイ! グッドガール! って」
岩重も泉水も横川も、その他すべての税関員に、何かを見つけて国の安全を守ったそのたびごとに賞讃の声を掛けたいと槌田は本気で思っていた。
「声が嗄れるし、何より通関業務の邪魔になりますから」
英に苦笑されたが、それでも槌田は食い下がる。
「声には出さない。でも、心の中で言う」
英が微笑んだ。
「良いですね。私もそうします」
いなされた感はぬぐえない。だが英がしようとしまいと、自分はそうすると槌田が決意したそのとき、「グッドボーイ!」の声が響き渡る。ライクがまた見つけたのだ。槌田は大声で「グッドボーイ!」と叫んだ。
(第4話へつづく)