◇長編小説◇日明 恩「水際守護神S」──第4話 Bon voyage〈前編〉

◇長編小説◇日明 恩「水際守護神S」──第4話 Bon voyage〈前編〉

晴海ふ頭にクルーズ船が到着。乗客が巻き込まれたトラブルとは!?

 磯谷が案内したのはレストランだった。ガラス張りで店内は明るい。だが人気はない。

「ランチとディナー時のみオープンしているレストランをお借りしました。あちらにいらっしゃるのが豊島様です」

 掌で指し示した先に、窓を背に小柄な白髪の女性が席に着いている。白いテーブルの上には紙袋が置かれていた。近づいて行くうちに、緊張で青ざめた顔を小刻みに震わせているのが見て取れた。

 豊島の横に磯谷、対面して英と槌田という形でテーブルに着く。

「磯谷さんから相談を受けて参りました。東京税関の英と槌田です。よろしくお願いします」

 英が簡略に二人分の自己紹介をする。

「豊島八重子(やえこ)です。このたびはご迷惑をお掛けして申し訳ございません」

 小柄な体を一層小さくして豊島が頭を下げる。

「大変な目に遭ってしまいましたね」

 豊島に話しかける英の声は優しい。豊島が姿勢を戻した。英を見つめる目が赤い。

「豊島さんの安全を第一に、無事に事件を解決するためにも、どうかご協力下さい」

 豊島の目からぽろりと涙がこぼれ落ちる。俯いた豊島の小さな声が聞こえる。

「ごめんなさい。簡単に騙されてしまって、本当にごめんなさい」

 肩をすぼめて謝罪の言葉を繰り返す豊島を気遣って、磯谷が「私からご説明しましょうか」と提案してきた。豊島の気持ちが落ち着かないと、直接話を聞くのは難しいだろう。ならばもう一人の当事者である磯谷から先に話を聞くべきだ。槌田がちらりと英に視線を送るのと、英が「それではお願いします」と言ったのは同時だった。

「豊島様は前年からさまざまなクルーズを一人で利用されているリピーターのお客様です」

 クルーズ旅行を好む客は増えてはいるが、間隔を空けずに利用する客は多くはないので、すぐに豊島のことを認知したと磯谷は言う。

 八十二歳の高齢女性の一人客だということもあって、記憶には残りやすいだろうと槌田は思う。豊島八重子の個人情報は、事前に電話相談を受けたときに磯谷から聞いている。五年前に夫は死去。子供も近しい親戚もいない。生前の夫とよくクルーズ旅行に行っていて、すでに世界周航クルーズも何度も参加していたが、一人になってからは日本周遊のクルーズに切り替えた。

「何度もご利用下さるうちに、私の事を覚えて下さって、お話しさせていただくようになりました。今回、私が豊島様にお声がけしたのは、長崎県佐世保港から和歌山県新宮港に向けて終日クルーズをしている午後二時過ぎのことでした」

 二人の関係性を説明してから、磯谷は本題に入った。

 ラウンジで一人コーヒーを飲んでいる豊島を見かけた磯谷は、何の気なしに話しかけてみた。豊島が太平洋周遊1Weekクルーズ釜山・佐世保7泊コースを利用するのはすでに三回目だ。前回は体調が良くないからと釜山港では下船しなかった。だが今回は楽しそうに事前に申し込んでいた半日観光のバスツアーに出掛けていった。

「釜山観光はいかがでしたか? とお訊ねしたら、スマートフォンを出して撮った観光地や料理の写真を一つ一つ見せてご説明下さいました。楽しい時間を過ごされたご様子に私も嬉しく思っておりました。ですが、最後に聞いたお話が引っかかったんです」

 豊島がバスツアーで韓国映画や韓国ドラマの撮影にも使われている有名な国際市場に立ち寄ったときの話だ。あまりに店の数が多くて疲れてしまい、早々にバスに戻ろうとしていた。

「そのときに、市場の路地から出て来た人にぶつかってしまって」

 気持ちが落ち着いたらしい。豊島が話し出した。

「白髪頭で私と同年代くらいに見える女の人でした。私はその場に尻餅をついてしまって」

 女性は片言の日本語で平謝りしてくれ、さらに申し訳ないからと屋台でお茶をご馳走したいと言ってきた。

「怪我もなかったし、そこまでして貰う必要はないと断ったんです。でもその人が」

 女性は日本の大学に留学している孫を驚かせるために独学で日本語を勉強しているから、それに付き合って貰いたいのも含めてぜひにと懇願してきた。

「集合時間まではまだ三十分以上時間があったし、バスで一人待つのもつまらないと思って、ちょっとだけならと言ってしまったんです」

 豊島の声から、そのときの判断を後悔しているのが槌田にも伝わって来た。

 イ・ヨンミと名乗る女性はつたない日本語で、七十六歳で夫はすでに他界していること、一人娘夫婦に初孫の男の子がいて、今は早稲田大学に通っていると自己紹介した。

「色々お話して、お互いに写真も撮って」

 豊島が差し出したスマートフォンのディスプレーには白髪の丸顔の女性が映し出されていた。木訥な笑顔から、人が良さそうに見える。

「お孫さんのお話をされているとき、本当に嬉しそうで。スマートフォンで写真を見せてくれて。グァンスさんってお名前で。グァンスって才能が光る人って意味なんですって。かなりの美男子──じゃないわね、今だと、ええとイケメンであっているかしら?」

「正解、お見事です」

 にこやかに英が即答した。褒められたことが嬉しかったらしい。豊島はまるで少女のようなはにかんだ笑顔を浮かべて、さらに話を続ける。

「でも、そのうちにヨンミさんが」

 写真や動画は送ってきてくれる。けれどもう一年以上、直接孫と会えていないと泣き出してしまったのだ。どれだけ慰めの言葉を掛けても泣き止まず、屋台という場所柄もあって人の目も集まって、豊島は困ってしまった。

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日明 恩(たちもり・めぐみ)

神奈川県生まれ。日本女子大学卒業。2002年『それでも、警官は微笑う』で第25回メフィスト賞を受賞しデビュー。他の著書に『そして、警官は奔る』『埋み火  Fire’s Out』『ギフト』『ロード&ゴー』『優しい水』『ゆえに、警官は見護る』など。

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