◇長編小説◇白石一文「道」連載第1回

◇長編小説◇白石一文「道」連載第1回
ある画家の描いた一枚の絵。
その絵の持ち主から聞いたある言葉。
いまはまだ、物語が解き放たれる少し前の話。

「ラインを統括している肝腎の製造課長に問題があるってことだからね。橋本君というのは職場の人間関係は上手に作れる男なんだ。担当しているラインはパートさんやアルバイトもよく働くし、ロスも少ない。三人いる製造課長の中でも、工場長の一番のお気に入りでもある。だけど、彼には品質管理の重要性がいまひとつ分かっていない。今回と似たような事例が二ヵ月前にも起きているし、おそらく昨日の一件もそれほど重大には受け止めていない気がする。そういう品質管理意識の希薄な人間がそのうち大きな食品災害を呼び込むんだよ。食べ物を扱っている以上、死亡事故だって起こり得るし、実際これまでも企業の存亡に関わる重大事故が、いろんな食品会社で何度も起きている。そういう点で、橋本君の問題は実にやっかいでもあるんだよ」

「その課長さん、歳は幾つなの?」

「三十八。碧ちゃんと同じ」

「三十八なら私の一個下だよ」

「そうか……」

 ということは、碧は今年で四十歳になるというわけだ。

「だけど、三十八にもなっちゃうと意識ってなかなか変えられないよね。特に、下の人間に受けがいいタイプは案外頑固な人が多いから」

 長年、系列店の店長たちの指導に当たってきただけあって碧はなかなか鋭いことを言う。

「昨日、張本人のパートさんに確認してみたら、彼女は、新品のタオルに交換したからそっちの方がアルコール消毒より衛生的だと思ったって言うんだ。課長にも一度見つかったけど黙認してくれたって。だけど、糸くずはむしろ新品のタオルの方が出やすいくらいだからね。橋本君が本当に黙認したのなら大問題なわけだけど、日頃からパートさんの受け重視の彼だったら、いかにもありそうな気がするんだ」

「このまま放置ってわけにもいかないんじゃない。大きな事故が起きてしまってからだと取り返しがつかないし」

「そうだね」

「だから浮かない顔をしてるんだ」

 碧が覗き込むような仕草になってこちらを見てきた。ビールのせいで頬が少し赤らんでいる。この人ももう四十歳になるのか、と改めて思った。

「おにいさんだったら、その課長さんを現場から外すこともできるんでしょう?」

「まあね。でも、橋本君は明るい性格のナイスガイだしね、あんまりそういう強引なやり方はしたくないんだ……」

「そうなんだ」

 功一郎の勤めるフジノミヤ食品は、惣菜や洋菓子を中心にさまざまな食品を製造し、各メーカーやコンビニに納入する大手食品製造会社の一つだった。本社は東京で、関東近県に七つの製造工場を擁している。功一郎は品質と衛生管理のエキスパートとして、会社全体の品質管理を統括する「管理監」という特別なポストに就いていた。待遇は役員並みだから、それこそ品質や衛生管理上の問題であれば、各工場の工場長に対して適切な人事配置、つまり職員の配転や転属などを求めることもできた。

 橋本課長を速やかに製造ラインから外すよう我孫子の工場長に命ずることも権限上は許されているのである。

「職場の人間関係ってほんとに難しいよねー」

 碧が呟くように言って、自分のグラスにビールを注ごうとする。だが、缶の中身はほとんど残っていなかった。

「おにいさん、今日は仕事?」

「夕方、ちょっと工場に顔を出せばいいだけ」

「じゃあ、もう少し飲もうか?」

「ああ」

 二人でビールのロング缶二本だとさすがに飲み足りない。

 碧が立ち上がり、テーブルの上のものを手早く片づけ始める。功一郎も席を立ってほとんど空になった鍋やカセットコンロをキッチンへと運んだ。

 碧がワインとグラスを準備する。功一郎は冷蔵庫のサラミソーセージとチーズを出してペティナイフでスライスし、それを皿に盛って卓上に置いてから自分の椅子に戻った。

 再びテーブル越しに差し向かいになり、赤ワインで乾杯する。

「きみの仕事の方はどうなの?」

 橋本君については、夕方、工場長の長谷川さんと会って善後策を協議するしかあるまい――そう思いながら功一郎は水を向けた。

 こんなふうに碧と一杯やりながら互いの仕事の話をするのは、いまの功一郎にとって唯一の気晴らしだった。

 仕事には苦労がつきものだが、意義もあればやりがいもある。だが、その仕事を凌駕するほどの生きがいの場であったはずの家庭は、美雨の事故がもたらした渚の精神破綻で殺伐とした荒野に成り果ててしまった。

 今回の自殺未遂で渚の回復はさらに遠のいた――いや、それどころか振り出しに戻った、ないしはより深刻な状況に陥ったのかもしれなかった。本来、夫の自分が一人で見るべき妻の面倒をこれまで共に担ってくれた碧には感謝の気持ちしかないが、そんな碧だからこそ、ほんのひととき渚のことを忘れて一緒に酒を飲むにはうってつけの相手でもあるのだった。

 ただ、そういう甘えもこの辺で思い切って断ち切らねばならない。

 これ以上、渚のことで碧に犠牲を強いるわけにはいかないだろう。

 今までも事あるごとにそう思い、それでもずるずるとその献身に頼り続けてきた。しかし、今回の一件ですべてが振り出しに戻ったのだとすれば、ここが、妻に対する夫としての向き合い方を抜本的に改める貴重な機会なのだと功一郎は思う。

 たった一人の愛娘をあんな事故で突然に奪われ、母親の渚が五体を引き裂かれるような苦痛の沼に滑落してしまったのは無理からぬことだろう。父親である功一郎にしろ、渚が先にあのような状態になっていなければ、我が身が精神破綻をきたしていた可能性は大いにある。その点では、渚は功一郎の分まで苦悩を背負って、今現在も闇夜をさまよっているのである。

 十五日月曜日の深夜、薬の過飲で人事不省に陥っている渚を碧が見つけたとき、功一郎は不在だった。我孫子の工場で碧からの一報を受けたのは火曜日の午前二時過ぎ。渚はすでにかかりつけの慈恵医大柏病院に救急車で搬送され、医師の処置を受けた後だった。薬量は生命に関わるほどではなく、二年前のように胃洗浄をする必要はないこと、一晩様子を見て明日には退院できることなども併せて碧は伝えてきたのだった。

「一泊で退院は無茶なんじゃないか」

 碧の報告に胸を撫で下ろしながらも功一郎が思わず電話口で呟くと、

「コロナがあるから入院はなるべくしない方がいいって先生が言うのよ」

 彼女も困惑したような声を出した。


「道」連載一覧

白石一文(しらいし・かずふみ)

1958年福岡県生まれ。2000年『一瞬の光』でデビュー。2009年『この胸に深々と突き刺さる矢を抜け』で山本周五郎賞、2010年『ほかならぬ人へ』で直木賞を受賞。近著に『ファウンテンブルーの魔人たち』。

鈴村ふみ『櫓太鼓がきこえる』
榎本泰子『「敦煌」と日本人 シルクロードにたどる戦後の日中関係』/オアシスの町をどう“発見”し、愛するようになっていったか