◇長編小説◇白石一文「道」連載第1回
その絵の持ち主から聞いたある言葉。
いまはまだ、物語が解き放たれる少し前の話。
功一郎は急いで病院に駆けつけ、碧を帰して自分が渚の眠っている病室で夜を明かした。目を覚ました渚を連れて自宅に戻ったのは昼前だったが、そのとき玄関先に出てきた碧の顔色が余りに悪いことに一驚した。睡眠薬や抗うつ剤を大量に飲んだ末にようやく意識を取り戻したばかりの渚と比べても彼女の憔悴ぶりの方がひどいような有様だったのだ。
その姿を目の当たりにした瞬間、
――もうこんなことは、とてもじゃないが、これ以上は続けられない……。
功一郎は心底そう感じたのである。
「おにいさんの会社とは正反対。感染者が急増し始めた昨年末から、せっかく戻っていた売上が急降下しちゃって、どうやらまた希望退職の募集をかけるみたい。来週にはプレスリリースを出してメディアにも発表すると思う」
碧が嘆息気味に言う。
「今度は何人くらい?」
彼女の会社は、昨秋にもグループ会社全体の従業員の一割にあたる二百人規模の希望退職を募ったはずだった。コロナが外食や旅行、鉄道、航空などの業界を直撃しているのは周知だが、実は、ユニクロやワークマンといった実用衣料を除くアパレル業界が蒙っている打撃はそれに勝るとも劣らないらしい。
「百五十人。だけど、去年だって二百人の募集に三百人近くが応募してきたんだよ。今度もおそらく二百人以上が抜けちゃうんじゃないかな。まあ、今回は百貨店ブランドの運営会社と直営店の管理会社の二社に絞っての募集らしいけどね。併せて百貨店ブランドを七つも廃止して、四百店舗以上の撤退も年内に進めるって聞いてる」
長引くコロナの影響で企業業績の顕著な二極化が生じている。現に外食産業の不調を尻目に、家食拡大でスーパーの食料品部門や惣菜部門は大幅な売上増を果たしているし、そうした大規模小売店へプライベートブランド商品として菓子やスナック類、惣菜などを供給しているフジノミヤ食品の今期の売上も対前年比で二割以上のアップがすでに見込まれているのだった。
我孫子の工場では師走の繁忙期に、従業員、パートさんだけでなくアルバイトにもボーナスを支給する大盤振る舞いが行われていた。
サラミやチーズには口をつけず、碧はグラスのワインをすいすいと飲み干している。
このワインは功一郎の会社が出資する山梨のワイナリーが作る国産ワインだが、渋みの少ない飲みやすさで近年テーブルワインとして大ヒットしている商品だ。
クリスマスに一ケース取り寄せて彼女にプレゼントしたところ、えらく気に入ってせっせと飲んでくれていた。
「だけどそんなにリストラばかりやったって将来的な社業の回復や発展は見込めないんじゃないの」
碧の会社の社長は銀行出身で二年ほど前に就任したと聞いている。ブランドビジネスの何たるかはおそらく理解していないのだろう。
「そうね。で、ここだけの話なんだけど、どうやらその代わりに生活雑貨のチェーン店を買収するらしいの。昨日、営業時代のボスだった人から突然電話が来て、その人、いまは副社長になっているんだけど、私にそっちを手伝ってくれないかって」
「手伝う?」
「そう。完全子会社化するらしくて、本社内に新しい部門を起ち上げるみたいなの。だから、そこに移って店舗指導の指揮を執って欲しいっていうのよ」
「それで?」
「もちろん断ったよ」
「どうして?」
むしろ碧の方が怪訝な表情になる。
「だっていまのおねえちゃんの状況じゃあ現場復帰なんてとても無理でしょう」
「だけど、それってきみにとってはいい話なんじゃないの?」
すると、碧はわずかに首を傾げて、
「どうかなあ。生活雑貨の販売なんてほとんどやったことないしね。それに仮に引き受けたらまた全国の店舗を飛び回る羽目になっちゃうし」
と言う。
それからしばらく会話が途切れた。功一郎はサラミをつまみ、自分のワインをちびりちびりすすった。
どことなく気分を害した感じの碧の様子をそっと窺う。
すると奇妙なことに気づいた。
「ねえ」
思わず声を掛けていた。
碧の視線がこちらへと動く。
「それ」
功一郎は、ワイングラスを持っている碧の右手を指さした。
「ああ」
合点がいった表情で彼女が手元に目を落とす。
「一ヵ月くらい前からときどきこうなるのよ」
そう言って、小刻みに震えている右手を左手で包み込むようにしたあと、残っていたワインを飲み干すとグラスをテーブルに戻した。
「お医者さんには相談したの?」
「一度、会社のビルに入っているクリニックで診て貰った。そこは脳神経内科の看板も出しているから。いろいろ診てくれて問題はないだろうって。自律神経の失調が原因みたい」
碧の会社は日本橋室町の新しい高層ビルに入っている。あのビルにあるクリニックならそれなりのレベルに違いない。
彼女は自分のグラスにワインを注ぎ、それをまた持ち上げてみせる。
「ほら。もう震えていないでしょう。たまになるだけだから」
功一郎は一つ呼吸を整えて義妹の顔を真っ直ぐに見つめた。
「ずっと考えていて、今週はさらに本気で考えたことなんだけど……」
渚の病室で夜を明かしているときから思案し、さきほど、家までの車中でもそればかり考えていたことをいまこそ口にすべきだと功一郎は思った。