◇長編小説◇白石一文「道」連載第1回

◇長編小説◇白石一文「道」連載第1回
ある画家の描いた一枚の絵。
その絵の持ち主から聞いたある言葉。
いまはまだ、物語が解き放たれる少し前の話。

「きみが来てくれて来月で丸二年になる。二年前、同居して渚の面倒を一緒に見てくれると言われたときも、正直、そんなことをさせていいんだろうかと悩んだ。でも、それで渚の回復が捗るんだったら甘えてもいいんじゃないかと思った。ただ、あのときは長くても三ヵ月か半年で渚も元気になるだろうと信じていたんだ。当時の主治医も、引き継いでくれた慈恵医大の先生もそんな感じのことを言ってくれていたからね。でも、ご覧の通り現実は違った。日中は僕が、夜はきみが見るっていう、いわば完全看護体制で渚を見守ってきたけど、まだまだ十分に回復したとは言い難い。それどころか、月曜日の一件からして、状況は振り出しに戻ったと考えざるを得ないような気がする」

 そこまで喋って、功一郎は碧の反応を窺った。彼女は表情を変えず、無言でこちらを見つめている。

「このままいまと同じような暮らしを続けていても本物の回復は見込めないのかもしれない。というより、彼女が元気になるには当初考えていたよりもずっとずっと長い時間がかかるんじゃないか。そうだとしたら、もうこれ以上、きみの大切な人生をこんな生活に巻き込むのは間違いのような気がするんだ」

 それで、という表情になって碧は先を促す。

 手にしたワインは一口もつけずにテーブルに戻していた。

「実は、これも前々から考えていたことなんだけど、僕自身も会社を辞めて独立しようかと思っているんだ。いまの会社では大事にして貰っているし、そもそも食品の品質管理のエキスパートとしてやってこられたのも、あの会社のおかげだからね。二年前、我孫子で夜間勤務中心の仕事をしたいと申し出たときも、何の条件もつけずにOKしてくれた。役員昇格を断ったときも、管理監というポストをわざわざ新設して同じ待遇にしてくれた。そういう点では、退職するのは非常に忍びないんだけれど、ただ、たとえ独立してもフジノミヤ食品の品質管理に力を貸すことは十分に可能だと思う。それに、独立すれば、他の会社との契約もできるし、いまだって時間を見つけて続けている講演活動やセミナーを本格化したり、品質管理の教本の執筆に専念することもできる。何より、家で仕事ができれば一日中、渚と一緒にいてやれるし、講演やセミナーで地方を回るときだって二人で出かけて、渚にいろんな場所や景色を見せてやることもできる。そんなふうにこれまで以上に彼女と過ごす時間を増やしていけば、それが病気の回復にもいい影響を与えるんじゃないかという気もしているんだ。だとすれば、きみも安心してここを離れることができるしね。もちろん何か手伝いが必要なときは遠慮なくお願いするつもりだし、きみも好きなときに渚に会いに来てくれればいい。何しろ、もうこの家はきみにとっても勝手知ったる我が家みたいなものなんだからね」

 功一郎は腹にあったことを偽りなく全部話した。

 独立については美雨が亡くなったときも一度考えたのだった。娘の菩提(ぼだい)を弔い、うちひしがれている妻を守るためにそうすべきではないのかとかなり迷った。当時、功一郎はすでに五十四歳。独立するならぎりぎりの年齢という気もしていた。

 だが、渚が鬱症状をみるみる悪化させ、事故から三ヵ月後の二〇一八年の大晦日に大量の薬を飲んで自殺を図ると、独立どころの話ではなくなってしまった。一週間ほどで退院してきた渚を碧と二人で自宅に迎え、碧が長期休暇を取って渚の面倒を見てくれているあいだに功一郎の方は会社と掛け合って我孫子工場への異動を決めたり、美雨の思い出が染みついた自宅を売却して新居を見つけたりと奔走した。渚が美雨の使っていた部屋で薬を飲んだことから、生活環境を大きく変えるべきだと医師からもアドバイスを受けていた。

 そして、二〇一九年の三月半ば、碧も同居する形でこの柏の一戸建てに三人で転居してきたのだった。

 功一郎が話し終えた後も、碧は無言だった。

「この話、きみはどう思う?」

 功一郎の方から問いかけてみる。

 碧が一度視線を逸らし、また功一郎へと向ける。

「おにいさん、そんなの無茶だよ」

 彼女は落ち着いた声で言った。

「おねえちゃんの病状は、これからさらに悪化していく可能性だってあるでしょう。実際、月曜日の出来事は驚きだったし、でも思い出してみれば、二年前に最初の自殺未遂をしたときも少し元気になってきてた気がする。前日、私が東陽町のマンションで会ったら、ずいぶん回復しているなあって思って、それで安心して帰ったのをよく憶えているもの。そしたら、大晦日の晩におにいさんから連絡が来て、びっくり仰天だった。今回もそうでしょう。九月に美雨ちゃんの三回忌が済んで、おねえちゃん、なんだか少し吹っ切れた感じだったじゃない。年末年始も塞ぎ込むようなことはなかったし。先週だって、一緒にスーパーに買い物に出かけたり、ごはんを作ったりしてた。土曜日なんて、しっかり二重マスクを着けて美容院にも行ったんだよ。その二日後にあれだもの。とても目が離せるような状況じゃないし、だとすれば、目は二つじゃなくて四つの方がずっといいに決まっている。月曜日のことがなかったのなら、その話も悪くないかもって思えたかもしれないけど、いま急におにいさんが一人でおねえちゃんの面倒を見るなんて、およそ現実的じゃないと思う。もちろん私のことを考えて言ってくれているのはよく分かっているけど、でも、こんな状態でここを出て行って、それで万が一にも月曜日と同じようなことがもう一度起きたら、それこそ私自身、一生悔やんでも悔やみきれないことになっちゃう。おにいさんが独立するというのは反対しない。それは、おねえちゃんにとっても心強いだろうと思う。この緊急事態宣言が予定通りに解除されたら、来月からは会社に出る日が徐々に増えるだろうし、私にとっても独立はありがたい話のような気がする。だけど、だからといって私がこの家を出て行くっていうのは、とても不可能だし、そんなことをすれば、それこそおにいさんも精神的に参って、おねえちゃんと共倒れになってしまうと思う」

 碧は理路整然とした物言いで言う。反発しているとか、こちらを説得にかかっているとか、そういう雰囲気ではなく、彼女もまた自分の気持ちをありのままに伝えているだけのようだった。

 もともと、渚と碧は仲の良い姉妹というわけではなかった。美雨が亡くなり、渚が鬱を発症するまでは疎遠だった。絶縁とまではいかないが、同じ都内に住んでいながら行き来は滅多にしていなかった。

「あの子は勉強はよくできたけど、ヘンにずる賢いところがあってどこかしら信用がおけないのよ」

 ずいぶん昔、渚が碧のことをそんなふうに評したこともある。

 二人の関係が変わったのは、だから、美雨の事故が起きてからだ。

「両親が亡くなったとき、私はまだ中学生で、おねえちゃんはおかあさん代わりだった。ものすごく世話になったのに、私はおねえちゃんとはいつも喧嘩ばかりで、全然仲良しの姉妹じゃなかった。だから、いまの私は罪滅ぼしのつもりでやらせて貰っているの」

 この家に転居して来てしばらくした頃、碧がそんなふうに言ったこともあった。

 姉妹の実家は「神宮寺(じんぐうじ)」という家で、両親は共に中学校の教師だった。

 父親が脳梗塞で急逝し、それから半年もしないうちに母親もまた同じ脳梗塞で倒れて亡くなっている。当時、渚は短大の二年生、五歳年少の碧はまだ中学三年生だった。それからは杉並にいまもある持ち家のマンションで姉妹二人で生活し、渚は短大を卒業して功一郎の会社に就職。翌年には功一郎と一緒になった。さらに次の年、美雨が生まれ、その次の年には碧が大学に入学した。結婚と同時に渚は実家を出たので、両親亡き後、姉妹が実家で共に生活したのは二年足らずだった。

 高校生になったばかりの妹がいると知り、功一郎は、結婚はせめてその妹が大学に入ってからにしようと考えていた。だが、新入社員だった渚と付き合い始めて二年目の暮れ、彼女の妊娠が分かり、そうも言っていられなくなったのだった。

 むろん、碧の面倒をどうするのか気がかりだったが、

「あの子の方が、私にさっさと出て行って欲しいと思っているのよ」

 渚は頓着する気配もなく、実際、結婚前に杉並の実家を訪ねてみれば、

「私はここで一人で全然平気だし、おねえちゃんがいない方が受験勉強も捗るんで、唐沢(からさわ)さんも私のことはどうか心配しないでください」

 碧の方も実に淡々とした様子だった。

 容姿はまるで双子のようによく似ているだけに、それとは真逆に思える姉妹の距離に功一郎の方がいささか面食らったくらいなのだ。

 結局、慶應義塾大学商学部に入学した碧は、この柏に来るまでずっと杉並の実家暮らしで、姉の渚は功一郎が購入した東陽町のマンションに移り、美雨の妊娠が分かるとすぐにフジノミヤ食品を退職して家庭に入ったのである。

「だけど、僕が独立すれば渚と二人でも何とかなると思う。さっきも言ったように、きみの手が借りたくなったら遠慮なくいつでも援助を頼むつもりだしね。僕としては、月曜日の一件をきっかけに、今後の渚との向き合い方を根本的に変えてみたいんだ。これまでは、三ヵ月もすれば、半年あれば、一年でなんとか、二年も経てば間違いなく――といった感じで、渚の回復に期待を寄せてきた。でも、そういう期待が渚には却って負担になったのかもしれない。一刻も早く昔の自分に戻らなくては夫である僕に相手にされなくなってしまう――そういうプレッシャーをずっと与え続けてきた気がする。だから、これからは、病気の回復は自然に任せて、僕はいまの彼女としっかり向き合っていきたいんだ。夫婦として一から出直したいと思っている」

「おにいさんの言っていることも分かる。これは皮肉じゃなくて言うんだけど、もう一度二人きりで出直したい、共に美雨ちゃんの供養をしていきたいってことでしょう? その気持ちも十分に理解できる。でも、いま夫婦だけになっても、さっきも言ったようにきっとおにいさんがパンクするだけだと思う。たとえ独立したとしてもまずは仕事の足場固めに専念して、せめてあと半年、一年は同じ暮らしを続けて、おねえちゃんの様子もしっかりと観察して、そこから二人でリスタートした方がいいと私は思う」

 相変わらず落ち着いた口調で碧は言い、手元のグラスを持ち上げた。

 またグラスがかすかに震えている。

 その震えるグラスを見つめながら、火曜日、玄関先に出てきた碧の憔悴ぶりを功一郎は想起する。

 ――やっぱり、もうこれ以上は無理だろう……。

 改めて思う。

 碧の言い分には一理も二理もあった。会社を辞めて独立したとしても、それと同時並行で一気に渚と二人だけの生活に移行するのは、彼女の指摘の通り、「無茶」で「現実的じゃない」かもしれない。功一郎自身にも正直なところ確信があるわけではなかった。

 だが、目の前の碧を、こんな自分たちのどん詰まりの人生に巻き込み続けるのは許されざることだろう。

 これは以前、渚が調子が良かった時期に聞いた話だが、かつて碧には結婚を約束した男性がいたようだ。美雨が亡くなり、鬱症状の姉の面倒を見なくてはならなくなって、彼女はその相手を諦め、姉夫婦との同居生活を選んだのだという。当時、碧は三十七歳。結婚にも出産にもぎりぎりの年回りと言っていい。そんな大事な時期を棒に振らせ、彼女も今年で不惑を迎えてしまう。

 だとすれば、あと半年、一年であっても、もうこれ以上、時間を無駄にさせるわけにはいくまい。

 ――一体どうすればいい?

 功一郎は頭を抱えざるを得ない。碧の理にかなった忠告をひっくり返すだけの論理を彼は持ち合わせていなかった。まさか力ずくでこの家から追い出すわけにもいかず、かといって首尾よく彼女を家から出すことができたとしても、その先の渚との暮らしに定かな見通しがあるわけでもない。実際、碧の力を借りずにやっていける自信は余りなかった。

 ――こうなったら思い切ってあれを試してみるしかない……。

 これも今週、ずっと頭にあったことを功一郎は思い返す。

 あれのことは、美雨を失った後、何度か思い立ち、その度に所詮は馬鹿げた妄想だと退けてきたのだった。しかし、渚の二度目の自殺未遂によって未来への希望がすっかり遠のいてしまったいま、たとえ馬鹿げた妄想に過ぎないとしても、もはやあれにすがるほか道はないのではないか?

 ――しかも……。

 どういう偶然かは知らないが、来週二十三日の天皇誕生日、功一郎は、講演のために久々に故郷の福岡に帰る予定になっていた。講演先は黒崎の食品工場だが、その日は小倉(こくら)のホテルに一泊の予定なので、翌日、生まれ育った博多の街に足を延ばすのは造作もない。

 たった一度の経験ではあったが、少なくとも四十年前はうまくいった。

 意図してやったわけではなかったが、あれによって功一郎の人生は決定的に変化した。

 万が一、もう一度同じことができれば、このがんじがらめの苦境から一気に抜け出すことができる。

 そしてそれは、功一郎、渚、碧のみならず死んだ美雨でさえも完璧に救済されることを意味するのだった。

*物語のつづきはこちらでおたのしみください
刊行情報


「道」連載一覧

白石一文(しらいし・かずふみ)

1958年福岡県生まれ。2000年『一瞬の光』でデビュー。2009年『この胸に深々と突き刺さる矢を抜け』で山本周五郎賞、2010年『ほかならぬ人へ』で直木賞を受賞。近著に『ファウンテンブルーの魔人たち』。

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