◇長編小説◇白石一文「道」連載第1回

◇長編小説◇白石一文「道」連載第1回
ある画家の描いた一枚の絵。
その絵の持ち主から聞いたある言葉。
いまはまだ、物語が解き放たれる少し前の話。

 昨春、コロナウイルスが全国に広がり始めて以降、週の半分近くを在宅勤務にしている碧だったが、月曜日の一件が持ち上がるとすぐに会社に申し出て、当分のあいだ在宅一本で通すことにしたようだった。

 だが、そうは言っても彼女一人に負担をかけるのは忍びなく、また、いまは片時も渚から目が離せないとあって、功一郎自身も工場長に掛け合い、これまでの夜勤中心のシフトを二月一杯は日勤中心のシフトに裏返して貰ったのである。

 碧はアパレルメーカーのベテラン営業職で、コロナ以前は各地の直営店や加盟店を巡って販促指導をやっていたのだが、二年前、功一郎たちとの同居が決まった時点で営業部門から内勤の総務部門へと鞍替えしていた。

「コロナのせいで店売りは壊滅的だし、会社もネット通販で何とか凌いでいる状況だもの。そう考えるとあのとき内勤に移っておいたのは私のキャリア的にも却ってプラスだった気がするな」

 最近はそんなふうに言ってくれているが、たった一人の身内とはいえ姉の世話のためにせっかく積み上げた会社でのキャリアを棒に振ったのは痛恨の極みではあったろう。

 渚と碧は二人姉妹で、年齢差は五つ。渚が短大生の頃に両親が相次いで病死し、親類縁者との縁が薄かったこともあって、功一郎を除けば、今や身寄りはお互いのみという境遇になっている。

 辛味十分のプデチゲを口にすると身体が次第にあたたまってくる。

 今年はどうやら暖冬のようだが、それでも朝晩の冷え込みは厳しい。

 社員用の駐車場は広い敷地の一番端っこなので、工場の建物からは三百メートルほどの距離があった。今夜のような風の強い晩に吹きさらしの道を車まで歩いていると寒さが骨身にしみてくる。

「ところで今朝のクレームは解決したの?」

 ラーメンを美味しそうにすすっていた碧が、箸を置き、缶ビールを持ち上げてこちらのグラスに注いでくれる。

「まあね」

「なんだか浮かない顔ですけど」

 茶化すような口調になっている。

「やっぱり品質管理のプロ中のプロとしては、自分の働く工場でクレーム品を出すのはすこぶる不本意なんでしょうね」

「いや、そんなことはないんだけどね。食品工場での異物の混入というのは、どんなに管理を徹底していても起きてしまうものなんだ。大切なのはそれを重大な食品災害にまで発展させないことだし、何より同じ過ちを二度と繰り返さないことだからね」

「じゃあ、どうしてそんな浮かない顔を?」

 自分のビールを飲み干し、碧は手酌でおかわりを注ぐ。

「そうかな。そういう顔してるかな?」

 言いながら功一郎は立ち上がり、冷蔵庫まで行くと新しいビールを取って席に戻る。

「たぶん」

 碧が面白そうに頷く。

 今年に入ってすぐに二度目の緊急事態宣言が出された後は、こうして夜中に二人で晩酌を共にすることが増えていた。渚は完全な下戸だったが、碧の方は結構な飲兵衛で、

「長年営業をやっていればこれくらい飲めるようにもなりますよ」

 と言っているが、同じ姉妹でも体質が違うらしい。容姿がよく似ているだけに、美味しそうに酒を飲む碧の姿を見ているといつもなんだか不思議な心地になる。

 同居を始めて最初の一年は、夜勤中心の功一郎が日中は渚とともに過ごし、碧が都内の勤務先から帰宅したところでバトンタッチして我孫子の工場へと出勤していた。

 だが、そうやって組み立てた分業体制も、昨年のコロナウイルスの蔓延でいまや融通無碍になっている。工場勤務の功一郎は緊急事態宣言期間中も毎日通勤していたが、碧の方は最初の宣言のときはほとんど在宅勤務だったし、今回も宣言発出と同時に出社は週一か二にまで減らしていた。それもあって、月曜日の一件の後、彼女はすんなり会社の許可を貰って家に張り付くことができるようになったのだ。

「今日の……」

 功一郎は壁の掛け時計の針を見る。もう午前零時を回っていた。

「というか昨日のクレームは、デコレーションケーキの生クリームに糸くずが混じっていたって話だったんだけど、原因はすぐに突き止めることができた。クリームをホイップするときにオートミキサーという機械を使っていて、その回転昇降ハンドルのノブに巻いていたタオルの一部がいつの間にかちぎれてクリームに混じってしまったんだよ」

「へぇー。だけどどうしてそんなタオルが巻きつけられていたの?」

 と碧が訊く。

「ハンドルノブの衛生状態を維持するため、次亜塩素酸ナトリウムの溶液に浸した木綿のタオルをノブに巻いておくという習慣があったんだ」

 そこで、功一郎は言葉を淀ませる。自分が「浮かない顔」になっているのが分かり、さきほどの碧の指摘は当を得ていたと思う。

「実はね、半月ほど前にその衛生タオルのことが気になって、橋本君という製造課長には指摘しておいたんだ。タオルはやめてハンドルノブを適宜アルコール消毒する方法に変えるよう指示も出していた。でも、今回確認してみたらちゃんと徹底していなかった。ベテランのパートさんの一人が橋本君の言うことを聞き流して、自分がラインに入るときは相変わらずハンドルノブに衛生タオルを巻きつけていたんだよ」

「じゃあ、本当なら発生するはずのないクレームが発生したってことね」

「そういうこと。しかも、こういう事案は意外に深刻なんだ」

「そうなの?」

 碧が怪訝な表情になった。

 二人でせっせと食べたので、プデチゲはあらかたなくなっている。やはり碧も渚と一緒の食事のときは、彼女に食べさせるだけで精一杯なのだろう。

 月曜日、渚は二度目の自殺未遂を起こした。

 一度目はもう二年以上前で、美雨(みう)の事故から三ヵ月後のことだった。以来、精神状態や体調に好不調の大きな波はあったもののそれきり自殺を企てたことはなかった。

 だから、功一郎にとっても碧にとっても今回の自殺未遂はまさしく青天の霹靂(へきれき)であり、二人が受けた打撃もひとしおだったのだ。


「道」連載一覧

白石一文(しらいし・かずふみ)

1958年福岡県生まれ。2000年『一瞬の光』でデビュー。2009年『この胸に深々と突き刺さる矢を抜け』で山本周五郎賞、2010年『ほかならぬ人へ』で直木賞を受賞。近著に『ファウンテンブルーの魔人たち』。

鈴村ふみ『櫓太鼓がきこえる』
榎本泰子『「敦煌」と日本人 シルクロードにたどる戦後の日中関係』/オアシスの町をどう“発見”し、愛するようになっていったか