▽▷△超短編!大どんでん返しExcellent▼▶︎▲ 井上先斗「見回り」

カレー皿に他の器を重ねたところでエミが「お皿」と言ってきた。
「シンク入れる前にちゃんと拭いてよ」
俺は「はいはい」と皿にこびりついたカレーをティッシュで拭う。まだ食事中のエミはスプーンの先をこちらへ向けながら「汚れ、とれにくくなるんだってば。何年言ってると思う?」
四年目、と口の中で答えながら皿をシンク内の洗い桶へ突っ込む。そのまま玄関へ行きジャケットを羽織った。
「見回り、いってくる」
懐中電灯をポケットに入れ、外へ出た。
麓から、電車の走行音が聞こえてきた。夜九時のニュータウンは既に静まりかえっている。
バブル期に山を切りひらいて開発されたというこの町で暮らし始めて、もう三年になる。
甲府に住んでいるエミの両親が買ってくれた家だ。俺の勤め先がある新宿と甲府との中間地点なので便利だろうとのことだが、そう見えるのは路線図の上だけだった。大体、斜行エレベーターで駅へ降りるだけでも十分かかる。
俺に仕事をとっとと辞めてもらって、婿として商売を継がせる足掛かりのつもりなのだろう。義実家は甲府では老舗の商店を営んでいる。
大人しく継ぐのが正しいと分かってはいた。そろそろ強がりはやめようとも考えている。
田舎暮らし――と、一まとめにすると、ここと比べたら甲府は大都会だとエミは怒るが――が肌に合わないわけでもない。むしろ馴染んでいる。元々のんびりしている性質なのだ。
ただ、近頃のこの町は忙しなく、騒々しい。
一か月前、町の外れで飛び降り自殺があった。山を越えていく県道の、ガードレールの向こうが崖になっているカーブが現場だ。死んだのは近くにある私立大学の学生だという。
それだけで迷惑なのだが、困ったのはそのあとだった。この崖に幽霊が出ると噂が流れ、興味を持った連中がやってくるようになったのだ。
問題になり、しばらくの間、交代で見回りをしようと自治会で決まった。火曜日と木曜日の九時台が我が家の当番である。
ジャケットのボタンを留めた。標高のせいで春でも風が吹くとまだ寒い。
誰ともすれ違わず例の崖までたどりついた。
ため息を吐いた。バイクが一台、とめられている。その向こうに人影も見えた。
「おい」
懐中電灯を向けてから、様子のおかしさに気づいた。
その若い男はガードレールの外、崖の縁に立っていて、陰気な笑顔で振り向いた。肝試しや心霊スポット訪問の動画撮影には見えない。
幽霊、とは思わなかった。
駆け寄ると、男は「すいません」とか細い声で言った。肝試しか、と尋ねた。男は「そうですそうです」と即答する。
「噓つけ」
俺はガードレールを跨ぎ越え、向こうから寄りかかった。男の真後ろはバイクで塞がれている。いざというとき摑んで止められる距離に行くためには、ガードレールの外に出て横に並ぶしかない。
崖の下へ目をやった。思っていたよりも、ずっと深い。俺は、ガードレールに押しつけるように、腰を深くした。
「吸うか」
ポケットから煙草を取り出す。
「いえ」
「じゃあ俺が吸う」
煙を一度、吐き出してから「どうしたよ」と聞いた。男は案外と素直に答えた。
「僕なんていない方がいい存在だから」
「誰かに言われたのか」
「言われてはないけど、皆、僕を嫌ってます」
「なんで」
男は俯いた。俺は身構える。そのまま落ちていってしまいそうに見えた。
「真面目すぎるみたいなんです」
「真面目」
「たとえば大学の講義中とかに自席で喋ってる奴がいるじゃないですか。ああいうのに注意しに行っちゃうんです。放っておけばいいとわかってはいるのに」
それは煙たがられるだろう。だが、死ななきゃいけないほどではない。
「別に良いと思うけどな。俺は不真面目だから女房にいつも注意されてるけど助かってるよ。あんたみたいな人がいてくれるから俺みたいなぼんくらも正しい道が分かる」
男は「そう、ですかね」と顔を上げた。「そうだよ」ともう一押ししてやると「ありがとうございます」と力強い返事。大丈夫そうだ。
「これからもガンガン注意してやりな」
俺は「帰ろうぜ」と尻についたであろう汚れをはらい、吸殻を崖下へ投げた。
「煙草をポイ捨てするな!」
「えっ」身体が浮いていることを認識した後に、押されたのだ、とわかった。男の顔を見た。妙な表情だ。驚いたように開かれた目が潤みだしている。届くはずのない男の声も聞こえる。「やっちゃった。また、やっちゃった。やっぱり僕はいない方がいい人間なんだ」。そうかもしれない。正しくない俺は思った。
井上先斗(いのうえ・さきと)
1994年愛知県生まれ。川崎市在住。成城大学文芸学部文化史学科卒業。2024年『イッツ・ダ・ボム』で第31回松本清張賞を受賞しデビュー。