t

 民俗学を学ぶ大学院生の藤崎千佳と、その師・古屋神寺郎が日本各地を巡りながら出会う"物語"を小誌で発表している夏川草介さん。「寄り道」「七色」「始まりの木」「同行二人」と四話が完成し、現在は来年発表予定の東京を舞台とした第五話を構想中です。夏川さんが敬愛する上橋菜穂子さんと、物語が生まれる瞬間について語り合います。

 

『遠野物語』に通じる不思議な体験を描いてみたくて。─夏川

上橋 お久しぶりです。もう4年くらい前になるんでしょうか。夏川さんとは、私の小説『鹿の王』が出た時に対談させていただいて、あれは医療の話だから、医師である夏川さんがどう読まれたんだろうと非常に緊張したのを覚えています(笑)。今度の夏川さんの小説は民俗学者が主人公ですよね。どうして民俗学の世界を描こうと思われたんでしょう。

夏川 人類学者である上橋さんにそう聞かれると、今日は僕の方が非常に緊張しています(笑)。もともと柳田國男がすごく好きで、民俗学にはずっと興味があったんですね。夏目漱石、小林秀雄と並んで、柳田は文章が好きな作家のひとりでした。『遠野物語』の文章も独特で、神隠しだとか不思議な話がいっぱい出てくるじゃないですか。最初は自分にとっては異世界の話だったんですが、医者をやっていると、どうしても説明のつかない不思議なことが多々起こるわけです。

natsukawasan


上橋 『遠野物語』と通じるような体験をされたということですか。

夏川 いわゆる怪談とはまたちょっと違うと思うのですが、あれは医者になって7、8年めの頃だったでしょうか。ある施設にご夫婦で入院されている方がいて、お盆の時期に当直をすることになったんです。8月14日に、とうとうおじいさんが亡くなりました。それでおばあさんにその話をして、帰ってきたその夜、何の前触れもなかったのに、おばあさんの心臓が止まって突然亡くなってしまった。医学ではどうしても診断がつかないことが時々あって、でも患者さんの側からはロジックで説明を求められるわけです。説明がつかないとそれは医学の限界じゃなくて、医者の限界だと思われてしまうことが多くて。そのギャップを強く感じるにつれ、自分が感じた理屈の通らない不思議な景色を小説で描いてみたいと思うようになったんです。

上橋 医師としての経験やロジックをお持ちだからこそ、その死の説明のつかなさ、理不尽さがよりわかるのかもしれませんね。『鹿の王』で医師のホッサルが「今はわからなくても、いずれすべてがつまびらかになるだろう」という意味のことを言うのですが、現代の人たちが科学というものに対して持っている感覚というのは、そういうもののような気がします。人の体のシステムというものを100パーセントわかると思っている。だから「わからない」のは知識が不足しているだけと思ってしまう。

夏川 ある意味、医学に対して信仰心を持っている。でも僕の実感としては、いくら医学が進歩しても、基本的にはずっと五里霧中という感じで、遠くまで見渡せるようになったという感覚はほとんどないんですね。

上橋 むしろ医師や科学者だからこそ「ここまでは完全にわかっている」と言いきれないものがあるのではないですか。いつの時代も、人はわかっている世界の「わかっている」という感覚にどこか不確かなものを持ちながら生きている。その不確かさを見せつけられた瞬間に、神に出会うのかもしれませんね。

怖いという感覚を忘れて、 人は傲慢になった。─上橋

上橋 『遠野物語』は、私にとっても大切な本のひとつです。最初の出会いはまだ高校生くらいの時、父から「すごく面白いぞ」と渡されたのですが、怖かったんですよ。本当に肌感覚で怖くて。おばあさんが、亡くなったその夜に現れる話がありますよね。おばあさんの着物の裾に炭取が触れて転がって、それを見たその家の気のふれた娘が「あ、おばあさんが来た」と叫ぶ。炭取が裾にふれてくるくると転がったという描写は三島由紀夫も絶賛したけれど、それを読んだ時、私も震え上がって、でも強烈に惹かれたんです。次にまた読んでみようと思った時には下心があって「これ、小説で使えないかなあ」と思って(笑)。

uehashisan


夏川 ああ。わかります(笑)。

上橋 でも使えないんですよね。その理由が今回また読み返してみて、あらためて見えてきました。河合俊雄さんも指摘しておられるのですが『遠野物語』には瞬間的な出会いしかない話が多い。岩の上に髪を梳っている美女がいて、それに気づいた猟師は次の瞬間、もう撃ち殺している。娘とどうこうなり、他の誰かがそれに関わってというような展開をしないのですね。

夏川 物語を期待して読むと「そりゃないだろう」という結構めちゃくちゃな展開の話が多いですよね。僕も『遠野物語』は怖い話だと思うのですが、医者の後輩たちに勧めると「全然面白くなかった」「意味がわからない」という感想が返ってくる。ロジックを鍛え抜かれた彼らには、理屈で説明できないものを受け入れるキャパシティがないんだろうと。わけのわからないものを「怖い」と感じることができるのは、わけのわからないものがあることをその人が肌でわかっているからだと僕は思っていて、そこには大きな差がある。今って、わけのわからないものは自分の世界から排除するという感覚の人がすごく増えているような気がするんです。

上橋 おっしゃること、よくわかります。特に都会で暮らしている人たちにとっては、森の匂いを感じるような肌感覚が薄れているような気がしてならない。肌感覚で感じられなくなったら、ものを書けなくなるんじゃないかという危機感が私にもあって、その意味では『遠野物語』を「わからない」と切り捨ててしまう彼らの気持ちが半分わかるような気がするんです。夏川さんも医学生としてロジカルな訓練を受けたはずなのに、なぜロジカルなものの向こう側を感じる感性を持てたんでしょうね。

夏川 もともと理屈を疑うところがあって、そのせいか理系の科目も大の苦手で(苦笑)。自分の最大の弱点だと思っています。

上橋 そりゃまた、意外な(笑)。

夏川 あとは、母親がいろんな昔話をしてくれたおかげなのかなと。つじつまの合わない話も多かったんですが、母親は四国のおばあちゃんからそういう話を受け継いでいたんです。「同行二人」に出てくる歌も、母親がよく歌ってくれた歌なんですよ。歌詞の「ケンザン先生」というのは江戸時代の家老・野中兼山のことで、ご遺族が高知県の宿毛に幽閉されていたんです。

上橋 実際に聴いてらした歌なんですね。

夏川 おばあちゃんは96歳になる今も高知県の片島という島に住んでいるんですが、実家のある大阪から片道6時間くらいかかります。小学生の頃は電車も通ってなかったし、瀬戸大橋もなかったので、おばあちゃんの家に行くまでがすでに非常に不思議な旅でした。大阪南港から船で香川に渡って、そこから鉄道で高知の少し先まで行って、その先はひたすらバスを乗り継いで行く。行けば行くほど自分の世界が遠のいて、異世界に行くような。

上橋 そういういろんなことが、きっと夏川さんの原体験になっているんでしょうね。