早瀬 耕『十二月の辞書』

早瀬 耕『十二月の辞書』

 設定していなかった朱鞠内湖のほとり


 短編小説『十二月の辞書』を長編にリメイクした草稿では、北海道の陸別町から物語が始まっていた。北見と帯広の中間地点にある小さな町で、とてつもなく寒い場所なのだという。内陸の町なのに「陸から別れる」という当て字も、物語の冒頭にふさわしいように思えたし、天文台とプラネタリウムもある。

 陸別に行くルートや宿を探している間に、友人から朱鞠内湖に誘われた。中米での仕事が終わって一時帰国した彼はイトウという淡水魚を釣るために北海道まで遊びに来るのだという。釣りの趣味はないけれど、地図を調べると美深という町から朱鞠内湖まで、折りたたみ自転車で走るにはちょうどいい距離と勾配だ。普通免許を持たないぼくは、山奥でトラブルがあったときに迎えに来てくれる車があるのはありがたいし、何より同行車があれば空身で走れる。すぐに同行を決めて、小説の冒頭を書き換えることを考えた。陸別と同じくらい「美深」という漢字も魅力的だ。

 友人とともに立ち寄ったJRの駅で、彼が余計な観光案内を見つける。そこには、美深が十代のころに読んだ小説の舞台なのだと書かれている。ぼくが「また似ているとか二番煎じって言われそう」と愚痴をこぼすと、「逆手にとるくらいでいいんじゃないの」と言われる。前日のサイクリングでバテていたぼくは、自転車を畳んで、レンタカーの助手席で森の中を湖まで登った。かの小説では美深と思しき町から東に向かうのだが、ぼくたちは西に走ったので「不吉なカーブ」を曲がることもなく朱鞠内湖にたどり着く。

 森の中に佇む湖は、道路と湖畔の境界があやふやで、気づくと舗装道路が途切れていた。そして、静かできれいな水面がひろがっている。それは「この静寂は設定していなかったな」と思わせるくらいで、頭の中で凍てつく冬の湖の光景が小説の中へとつながった。

『十二月の辞書』新刊エッセイ

 湖畔の宿は静かでいい宿だった。ただ、夕食のメニューがジンギスカンとダッチオーブンしかない。友人が「3日目からはダッチオーブンの中身が変わるだけですか」と宿の人に尋ねている。宿の人が、3泊目以降のメニューを教えてくれて、10連泊まで対応しているとのことだ。ぼくは毎晩同じ料理が続いても不満を持たない質なので聞き流していたけれども、何泊目かのビーフシチューに惹かれた。

 小説が売れたら、朱鞠内湖のほとりで、ビーフシチューが供されるまでぼんやりと冬の日を過ごしたい。

 


早瀬 耕(はやせ・こう)
1967年東京都生まれ。92年『グリフォンズ・ガーデン』でデビュー。他の著書に『未必のマクベス』『プラネタリウムの外側』『彼女の知らない空』。

【好評発売中】

十二月の辞書

『十二月の辞書』
著/早瀬 耕

◉話題作、読んで観る?◉ 第55回「ある男」
週末は書店へ行こう! 目利き書店員のブックガイド vol.61 吉見書店竜南店 柳下博幸さん