ハクマン 部屋と締切(デッドエンド)と私 第129回
浅田次郎先生にも
「書くことがない」
という現象が起こるらしい。
当然のように催促を受けて原稿に向かっているが、息をするように書くことがない。
しかし、書くことがないというのはもはやエッセイ作家の前提みたいなものだ、毎回締切に合わせて面白いことが起こるわけがない。
よって面白いことを探しに行くか、つまらないことをさも面白げに書くか、創作に走って炎上するかの3択になってくる。
追っていたエッセイ作家の更新が滞ってきたり、徐々に様子がおかしくなっていくのはもはや自然の摂理である。
むしろ永遠に淡々と更新を続けている奴の方が何かを逸しているので、突然笑顔のまま頭頂部が割れて中から寄生生物が出て来るかもしれないので注意深く経過を観察してほしい。
エッセイなのにもはや半分空想の話になってしまっていることもあるが、創作と空想は違う。
突然俺に16人の血のつながらない妹ができた、というのは空想でも「そんなことを考えていたらまた1日が終わっていた」というのは紛れもない事実であり、こちらとしてはむしろ創作であってほしいぐらいだ。
よって、エッセイストがネタ切れを起こしてつまらなくなっても、嘘を書いて燃えても明日は我が身なのであまり責める気になれない。
しかし創作や妄想は許せても「夢の話」に関しては私もまだ不寛容である。
基本140字のXの投稿ですら、途中で夢の話だとわかったら読むのをやめてしまうぐらいだ。
むしろ、他人の夢の話に対し寛容になれる奴の方が少数派だろう、Xで見かけた手に汗握るサレ妻の復讐劇が夢オチで許せる奴の方が怖い。もっと怒りという感情を大事にしてほしい。
どれだけ刺激的な内容であろうとも所詮夢の話である、むしろそれが長編スぺクタルであるほど「という夢を見たんだ」と言った瞬間の損害賠償請求額が大きなってくるのだ。
だが最近、夢の話で丸々1本エッセイを書き上げている人を見た。
それが浅田次郎先生である。
私は定期的に東京に行かねばならないのだが、その際JALの機内誌を読むのが唯一の楽しみなのだ。