吉川トリコ「じぶんごととする」 5. NYで夢を捨てる【アップタウン編】

吉川トリコ じぶんごととする 5 NYで夢を捨てる【アップタウン編】


 前回『BANANA FISH』と『吉祥天女』は同じ話だと書いたが、実は今回『ティファニーで朝食を』を読み返し、やっぱり『BANANA FISH』とほとんど同じ話じゃないかと思った。田舎から大都会に出てきた孤独な少年/少女が、大人の支配や搾取から逃れるために自由を求めてニューヨークをサバイブする物語。なにかを所有し、所有されることをなによりいとうホリーの高潔な魂は、アッシュのそれに重なる。しかし、結末だけはまるでちがっていて、アッシュは永遠にニューヨークに閉じ込められてしまったが、ホリーはいまだ世界を「旅行中」である。

吉祥天女(小学館文庫)1

『吉祥天女』1〜2
吉田秋生
小学館文庫

吉祥天女 1

『吉祥天女』1〜4 ※電子版
吉田秋生
小学館

 ここで『ゴシップガール』に話を戻そう(戻さなくていいという声が聞こえそうだが)。アッパーイーストサイドの令嬢・ブレアのフェイバリット映画は『ティファニーで朝食を』である。ブレアの部屋にはオードリー・ヘップバーンの写真が飾ってあり、劇中ではオードリーに扮したブレアが数々の名作シーンのパロディを演じてみせる。ブルネットのブレアはファッションもクラシカルかつガーリーなお嬢さま風で、オードリー・ヘップバーンを彷彿ほうふつとさせる。もう一人の主人公であるセリーナがブロンドで、セクシーかつクールなファッションを好み、マリリン・モンローの扮装をしていたのとは対照的だ。

 かつて吉田秋生はどこにも行けない性として少女を――日本の少女の現実を描いた。残念なことに、日本で生まれ育ったかつての少女の実感として、それは非常によくわかることだった。それでも現実を包み隠さず描いているという点では、甘いパステルカラーの糖衣でくるまれたハッピーエバーアフターの物語よりずっとマシだといえるだろう。多感な思春期にその手の物語を大量に浴びたことにより、どこかで私もそう思い込まされていたようなところがある。私たちはどこへも行けないし、ニューヨークの街を自由に駆け回ることなんかできないと。困りものなのは、キラキラした甘い恋物語も決して嫌いじゃない――いやむしろ大好物ってこと。

 ブレアもそうだったんじゃないだろうか。解像度をバキバキに高めた私は、ニューヨークの街を歩きながらふとそう思った。幼いころからオードリー・ヘップバーン主演のロマンティックコメディやそれに準ずるものをくりかえしこすり続けてきたせいで、アッパーイーストサイドを飛び出し、自分の力で生きていくという選択肢をはなから取り除いてしまっていたんじゃないだろうか、と。

 ニューヨークの街を歩いていると、ことあるごとに自分がアジア人であり、プチブルであるということを思い知らされた。なにかいやな目に遭ったとかそういうことではないのだけれど、「おまえは何者だ?」と問いかけるような圧の強さをそこかしこから感じるのだ。日本やほかの世界の都市を歩いているときとはちがって、いやおうなくプレイヤーの一人として立たされているような感覚があった。

 たった十日間滞在した旅行者ですらそうなのだから、この街で暮らす人々が日々感じているであろう人種/階級意識の強固さ、その乗り越えられなさについては、推して知るべしである。常に身の程を思い知らされ、現実をつきつけられるシビアな街・ニューヨークで夢を見続けようとするブレアは、むしろ世界一のロマンティストといえるのかもしれない。


「ビッチ」を自称するブレアは劇中さまざまな冒険や逸脱行為をするが、あくまでそれはアッパーイーストサイドのはんちゅうでの冒険であり逸脱である。途中、ブルックリンの文学青年ダンとつきあったりもするけれど、その恋が長くは続かないことにも自覚的である。ダンと人生を変えるような恋に落ち、アッパーイーストサイドを飛び出して世界を飛びまわっていたセリーナとはやはり対照的だし、それぞれがオードリー(映画版ホリー)とマリリン(原作版ホリー)に扮していたというのもまた示唆的である。

 はたしてブレアは『ティファニーで朝食を』の原作を読んでいるのだろうか。さすがにいまさら『ゴシップガール』全シリーズを見直して確認する気にはなれないが、私の記憶では原作を読んだという描写はなかったように思う(もしあったらすみません)(オースティンは読んでいた気がする。おあつらえむき!)。

 仮に原作を読んでいたとしても、ブレアの人生にはなんの影響もなかったのかもしれない。十代のころ、母の本棚から抜き出した『ティファニーで朝食を』の文庫本を読んだ私自身がそうだったように。

 ここではないどこかに行きたいとふわふわ甘い綿菓子のような夢を抱きながら、結局どこにも行けなかったし、どこかに行こうとも思わなかった。自分の中に強固に根付いているその手の保守性を自覚するたびにうんざりしてしまうのだが、裏を返せばそれは永遠に夢見ることを選んだということでもある。

 そう、自慢じゃないけど、私という人間は夢見ることにかけては一流なのだ。ホリー・ゴライトリーがいまも世界のどこかを「旅行中」だと思うだけで、身体が一センチほど宙に浮きあがるような気がする。だから私はティファニーで朝食なんかしない。

 


吉川トリコ(よしかわ・とりこ)

1977年生まれ。2004年「ねむりひめ」で女による女のためのR-18文学賞大賞・読者賞受賞。2021年「流産あるあるすごく言いたい」(エッセイ集『おんなのじかん』所収)で第1回PEPジャーナリズム大賞オピニオン部門受賞。22年『余命一年、男をかう』で第28回島清恋愛文学賞を受賞。著書に『しゃぼん』『グッモーエビアン!』『戦場のガールズライフ』『少女病』『ミドリのミ』『光の庭』『マリー・アントワネットの日記』シリーズ『夢で逢えたら』『流れる星をつかまえに』『あわのまにまに』など多数。
Twitter @bonbontrico


 

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