長岡弘樹『教場X 刑事指導官・風間公親』

長岡弘樹『教場X 刑事指導官・風間公親』

記憶に残る指導官


 これまでの人生で、「指導官」と呼ばれる人物から何か教えてもらった経験があるだろうか……。

 しばらくのあいだ考えてみたが、心当たりは一つだけだった。自動車学校での教習である。自動車学校の場合、教官の呼称としては指導が一般的かもしれないが、も使われないことはない。

 わたしの母校(と言うのか)はT自動車学校。そこで世話になり、いまでも記憶に残っている指導官が二人いる。彼らの人物像をちょっと紹介してみたい。

 まずAさん。この人は絵に描いたようなエリート指導官だった。ハンドル捌きにしてもギアチェンジにしても、惚れ惚れするほどスムーズで、動きにわずかの無駄もない。言葉遣いは丁寧で、性格は沈着冷静そのものである。

 ある日、Aさんが教習車を車庫から出そうとした。そのとき、助手席に同乗していたわたしの体に、ズンと鈍い衝撃が伝わってきた。見ると、ボンネットの側面が車庫の柱に軽くめり込んでいるではないか。

 あれだけ技量の高いAさんでも、こんな失敗をするのかと驚いた。もっと意外だったのは、いつも落ち着いている彼が、このときばかりは顔を青くし「やべえ、フェンダーべっこり……」と俗な口調で呟いたことだ。普段完璧に仕事をこなしている人ほど、ミスをしたときには大きく動揺し、余裕を失うものだな。そうつくづく感じさせられた一幕だった。

 もう一人がBさんだ。年齢は三十を超えていたと思うが、長い髪を茶色っぽく染め、肌を浅黒く焼いていた。見た目は完全な遊び人である。ところが……。

 昼休みになると、連れだって校外の飲食店へ出かけていく指導官が多かった中、Bさんは違っていた。そそくさと弁当を食べ終えるや、空いている教室に一人で籠もるのだ。そこで何をしているかというと、読書である。

 Bさんがいつも読んでいたのは、カバーを外したベージュ色の文庫本で、文字が細かく、五、六百ページはありそうな分厚いものだった。わたしのおぼろげな記憶では、中公文庫版の『パンセ』だったような気がする。でなければ岩波文庫の何かだ。Bさんは毎日のように、昼休みが終わるまでそれを一心不乱に読みふけっているのだった。チャラ男ふうの外見からは想像できなかった彼の行動パターンも、当時のわたしにけっこう新鮮な驚きをもたらしてくれた。

 T自動車学校では、何人もの指導官から代わる代わる教習を受けたものだ。その中にあってAB両氏の印象だけがとりわけ強烈なのは、彼らがわたしに〝意外な一面〟を見せてくれたからに他ならない。 この記憶を元にしたわけではないが、『教場X』でも、刑事指導官・風間公親の人間像が単調にならないよう留意した。「冷徹な指導マシーン」的側面を十分に強調しつつ、要所ではさりげなく人間味を覗かせるように描写してある。こちらの指導官も、末永く読者の胸中に留まってくれることを願うばかりだ。

 


長岡弘樹(ながおか・ひろき)
1969年山形県生まれ。筑波大学卒。2003年「真夏の車輪」で第25回小説推理新人賞を受賞しデビュー。08年「傍聞き」で第61回日本推理作家協会賞(短編部門)を受賞。13年に刊行した『教場』は、週刊文春「2013年ミステリーベスト10国内部門」第一位に輝き、14年本屋大賞にもノミネートされた。他の著書に、『教場2』『風間教場』『教場0 刑事指導官・風間公親』『血縁』『巨鳥の影』などがある。

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『教場X 刑事指導官・風間公親
著/長岡弘樹

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