ニホンゴ「再定義」 第1回「外タレ」

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 当連載は、日本在住15年の職業はドイツ人ことマライ・メントラインさんが、日常のなかで気になる言葉を収集する新感覚日本語エッセイです。 


名詞「外タレ」

「外タレ」とは「外国人タレント」の略称であるが、正式名称よりもモノゴトの本質ニュアンスを突いた単語という印象を受ける。その本質とは、

・ちょっとやそっとでは真似のできない語学力
・ちょっとやそっとでは真似のできない表現力
・ちょっとやそっとでは真似のできないインチキくささ

に対する羨望と揶揄のミックスだ。要するに、詐欺であることの証明が難しい詐欺師の一種みたいなものだけど、基本的に悪意はないのでそんなに嫌われていない、的なビミョーな存在である。いや、だったというべきか。

 外タレという単語の浸透度は高いが、いま二〇二〇年代の日常会話で頻出するかといえばそうでもない。バブル期に発生したパワーワードが、時代の空気のマイルストーンとして現在なお一定の存在感を維持しているということかもしれない。

 私が初めて外タレという概念的実在を目にしたのは、多くの昭和~平成期日本人と同様、「ここがヘンだよ日本人」というテレビ番組だった。文化的・産業的に国際上位の競争力を蓄えている(はずである)のに、いまいち対外的な現場で萎縮しがちで、しばしば強気な諸外国からの不当な揶揄・嘲笑の対象にもなる(という話には事実と被害妄想が混在する)日本国および日本人にカツを入れ、脳を刺激してネオ文明開化をもたらそう! というバトルトーク番組である。

 この番組に出演する外国人の心構えとして重要なのは、日本的通念の盲点を鋭く的確に突いてひと暴れしたあと、自らが「和のこころ」を日本人以上に重視していることのアピールを忘れない点だ。これによってスタジオで提起されたお題は「親日」「反日」という単純な二分法では解決できなくなり、視聴者たる日本人はナショナルプライドの再認識とともに、「なにやらためになるイイ話を聞いた」的な疑似教養じみた実感を得られるのだ。この番組に出演して著名になった外国人は、だいたいこの演出のツボを心得ていたように思う。重要なのは意表を突くネタ展開とお約束感のほどよいミクスチャーであり、阿吽の呼吸で虚実の境界を曖昧にしながら興奮を盛り上げる手法は、まさにプロレス的様式美の奥義に通じるといえるだろう。 

 九〇年代末期、姫路に留学する高校生として「ここがヘンだよ日本人」をホストファミリーと一緒に見ながら、私は「これがいまどき日本で成功するということなのか? 当意即妙の反応速度が第一条件として重視されるなら、私には無理だ」と感じた。そして画面を通して伝わってくるいかがわしさ&インチキくささが、今よりも格段にドイツ的真面目で石頭だった自分としては気になった。

「外タレ」からいかがわしさ&インチキくささをカットして洗練させると、それはたとえば「お雇い外国人」になる。文明開化の音がする。ドイツ絡みのお雇い外国人といえば、東京駅を中心とした東京圏の鉄道網のデザインと技術指導を行ったフランツ・バルツァー、日本の医学の発展に貢献して草津温泉ブレイクの立役者ともなったエルヴィン・フォン・ベルツ、そして明治期の陸軍育成に寄与したクレメンス・ヴィルヘルム・ヤーコプ・メッケルあたりが有名だが、特にメッケルの「関ヶ原の戦いの布陣図を見て、これは絶対西軍が勝ったはずだ! と頑固に主張して反論をきかなかった」という逸話は、それがどうも「ドイツ人ぽさ」を強調した後世の都市伝説らしいという点も含めて興味深い。キャラ性によって現実を浸食するのは、お雇い外国人というより「最強クラスの外タレ」の重要な資質だからだ。ガイジン市場の文化的性質というのは、結局のところ明治時代からあまり変わっていないのかもしれない。

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