ニホンゴ「再定義」 第11回「教養」
とはいえ、知的な「包括性」を一人の頭脳で引き受けるのには限界がある。いくら知的姿勢が真摯で優れていても、誰もがアリストテレス的な万能的知力を発揮できるわけではない。また逆に(アリストテレスを含め)、どんな才人でも単独ではどこかに綻びが生じるというもの。そこを一点突破的に突かれて誤謬を大々的にあげつらわれてしまっては意味がない。敵方が最小の知的コストで戦略的かつ効率的に勝利を得てしまうだけである。
…ゆえに、伝統的な「知的作法」を共有する者どうしで、知識と知的システムの相互補完機能をもつグループを形成する必要がある。そしてこれこそが「教養層」とその現代的な存在意義であるように感じる。「教養層」とは、単なるインテリの閥族ではなく、歴史的に蓄積された知的解釈の、というか作法と体系とシステムの共同防衛システムなのだ。包括性を持つことが知的攻防戦のツールとして有効! というのもある意味残念な話ではあるが、「立派な教養人が孤軍奮闘すれど、知的に器用な悪意どもから包囲攻撃を食らって大ダメージを受ける」的な、いまどきありがちな酸鼻な状況の打開策として、これはもっとも「あるべき」知的姿勢といえるだろう。
ドイツなんかでは良くも悪くもこの「教養層」の存在感が大きく、またオピニオンリーダーとしての社会的な認知がある(企業トップや政治家にも教養性が求められる局面が多く、彼らはその吟味プロセスを経てポジションを得ているといえる)ため、ネット民的な言説の跋扈がある程度抑止され、またそもそも山師的な言論人もどきがブンデス1部リーグ相当の言論フィールドにいきなり参加するのは難しい。このへんが、メディアでのスタジオ議論の知的ごった煮化状態が恒常化した(そして、議論の作法を守る側が得てして損をする)日本の言論シーンの状況と大いに異なる。またそれゆえに、言論人・教養人としての要件を満たした人士の参加が目立つ右派政党「ドイツのための選択肢(AfD)」が、「ネオナチなどと違って」社会的価値観を揺さぶる存在として激しく注目される、ともいえるのだ。
まあだからなんというかそんな次第で、日本の「保守人士」さんたちは、どうせやるならAfDのコンセプトを参考にしなさいよ、というわけでもないのだけど……などと考えていたところ、ひとつ気になるポイントが浮かんできだ。
「教養」といえば、伝統的な文芸様式に「教養小説」というものが存在する。ゲーテの『ヴィルヘルム・マイスターの修業時代』やトーマス・マンの『魔の山』あたりが代表的だが、ドイツ語で教養小説は「Bildungsroman」、直訳すれば「構築小説」となる。そのニュアンスを汲み取った「成長小説」という訳語も参考になるが、要するに、教養システムへの参入には、知的な自己形成(ステップに応じた濃厚な葛藤を含む)に向けた課題の段階的クリアが必要だという認識が存在する。まあそりゃそうだよなと思う一方、現代の情報環境を踏まえるに、ちょっと待てよと思う面がある。