ニホンゴ「再定義」 第17回「女子力」

ニホンゴ「再定義」第17回


 その結果、解説文がどうなったのかについては実際に本書に目を通していただきたいが、なんだかんだいって夫をクビにせず巻末解説文を掲載してくれた東京創元社は偉い。まさに菩薩のようだ。しかし夫の指摘が、「女子力」という言葉を取り巻く現実性とその矛盾を端的に浮き彫りにしていた点は、実に興味深い。

 また、このUボート戦の一件を傍観しながらひそかに感じていたのは、もし夫の主張が正しいとおおっぴらに認められても、それを踏まえてなおかつ、実際には少なからぬ「女子」たちが「この書物で女子力を肯定する」結論に落ち着くことを望むのだろうな、という情景である。

 女子力とは矛盾語だ。ゆえに、明確な定義が日常空間では巧みに避けられ続けているともいえるだろう。下手に明確化すると、それを通じていろんなものが性別を超えて不快さを放つようになってしまうのだ。

 とはいえ、ここまで書き連ねてきた文脈よりは、多少ポジティブな解釈余地が「女子力」というコトバに潜在している感触も無くはない。「女子」を生物学的なジェンダー(性別)ではなく、社会学的なジェンダー(性役割)でもなく、あくまで戦略的なソフトパワーとして捉えた場合、男性的マチズモの「下僕」たる概念であることを逆手に取ることができるかもしれない。たとえば「気遣い・気配り」的なアクションの極大化や援用を通じて、場のイニシアチブを握ってしまえる可能性など。実際、「名より実を取る」賢い人々はそのように振る舞っているだろう。まさに『小鳥と狼のゲーム』の著者が戦略的に仕掛けたように「女子力」には、何か別の戦略的目標を達成するためのシンボリックな触媒もしくは隠れ蓑として真価を発揮する余地があるかもしれない。

 ただ、この文脈もよく考えると、男女を超えた「人間力=ソフトパワー」の存在を軸にすればより汎用的な説明が可能だったりするので、そもそも「女子」力である必要はなくなる、という着地点が見えてしまう。ううむ、これはまさに、良かれと思って追究した道の果てのブーメラン自爆というものではないか。

 言霊にも意味と形が整合したシンプルな美しさを求める言霊師としては、いささか複雑な印象を覚えずにいられない、それが「女子力」の妖しい多面性だ。果たしてこの語はいつごろまで、どんな観念を纏いながら生き延びるのか、気になる。

(第18回は7月31日公開予定です)


マライ・メントライン
翻訳者・通訳者・エッセイスト。ドイツ最北部の町キール出身。2度の留学を経て、2008年より日本在住。ドイツ放送局のプロデューサーも務めながらウェブでも情報発信と多方面に活躍。著書に『ドイツ語エッセイ 笑うときにも真面目なんです』。

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