【連載第3回】リッダ! 1972 髙山文彦


第二章 スラムの黙示録

 私はあくる日も崇仁すうじんを訪れ、Y氏から話を聞かせてもらった。
 過去の秘密について、できれば他人には知られたくなかった人なのだ。
 奥平おくだいら剛士つよしの死後、東九条には私服や制服の警官が急に増え、地元の青年運動のリーダーであるMや彼は、しつこくつきまとわれた。かかわりのある職場の人間や近所の住民も、ふたりについて根掘り葉掘り訊かれる日々。「あいつらは赤軍や」などと、うしろ指をさす住民もなかにはいて、Y氏はつくづくいやな思いをした。彼自身の身の上にも、その後、みずから主体的にかかわった町づくりや解放運動によっていくつかの試練や動乱が起きては過ぎていった。そのため尾行やつきまといは、一九九〇年代半ばまで長期にわたってつづいた。
 かねてこの地は治安監視の対象になってはいたが、リッダ作戦の突然の展開によって、奥平と親密な時間を過ごしてきた人びとは事件との関連をつよく疑われたのである。
「Mさんは、奥平のアニキがパレスチナに行くことを知っていたんやね」
目蓋の下に、ふと青年の面影をよみがえらせてY氏は言った。
「事件の全容がわかってきたころMさんに電話をしてみたら、重信しげのぶ房子ふさことアニキの結婚は偽装や、と言われてハッとしたことがある。絶対に人には言うな、ときつく言われてね。それからずいぶん経って、八〇年代にMさんはパレスチナに行ってんねん。弟の純三じゅんぞうにも会ってるようやった。一度や二度じゃない。おっさん、なに考えてんねん、と思いましたよ。こっちは公安にビシビシやられてんのに、よけいに目をつけられるやないかと」
 純三は兄の遺志を継ぎ、一九七四年五月、偽造旅券で出国し、同年九月にオランダのデン・ハーグにあるフランス大使館を人質をとって占拠した。フランス警察に逮捕された山田やまだ義昭よしあきの解放を要求し、オランダ警察との銃撃戦を制してこれを成就した。その後、クアラルンプールのアメリカ大使館とスウェーデン大使館をやはり人質をとって占拠し、日本で勾留中の同志五人の解放に成功したあと、一九七六年にヨルダンで逮捕、日本につれもどされ勾留された。ところが翌年、丸岡まるおかおさむをリーダーとする部隊――じつはこのとき、丸岡がリーダーであることはまだ特定されていなかった。後年、死の淵にある独房から本人によってはじめて告白された――が日航ジャンボ機をハイジャックし、バングラデシュの首都ダッカにある国際空港に強行着陸させた作戦によって、ほかの同志や受刑者とともに奪還された。部隊はひとりの乗客も殺害せず、六〇〇万ドルという高額の身代金を日本政府から引っ張り出して、最大級の成果を世界にしめしたのだ。
 以後、彼らの行方はようとして知れなかった。そのため純三とかかわりの深かったMやY氏は、尾行や職質の対象とされた。国際指名手配中のその純三とMは会っているというのである。
 Y氏にとって、奥平剛士の行動と死をめぐる時間は、あの日から止まっていたわけではなかった。あれからたくさんの月日が流れ、記憶からも生々しさや刺々しさが薄まってきているのだろう。そこへ見も知らぬ私のような者がひょっこりあらわれて、記憶の水瓶に穴をあけてしまった。
 まさかそんな人であろうとはこちらだって想像だにしておらず、なにか手掛かりのひとつでもと思いながら訪問の意図を説明しているうちに、どうもようすがおかしいと気づいたのは、追い払うようなそぶりひとつ見せず、むしろこちらの話に熱心に耳を傾けている物静かなまなざしに出会ったからである。息を呑むように見えたのは、ほんの一瞬のことで、心を決めたように「それは私です」と言ったときの、あの表情からは、いつかこうしてだれかに問われるときが来たら打ち明けてもいいだろうと思いつめてきたような印象をうけた。
 でなければ、奥平という人間は東九条のスラムから出てパレスチナのために闘って死んだのだ、などと言えるはずがない。「歴史的にきちんと評価してほしい」という言葉を聞くにおよんで、私は、この人はあの日以来こんにちまでずっと絶えることなく思いをめぐらせてきた人なのだと、Y氏の孤独な思考の年月を思わぬわけにはいかなかった。
「アニキが死んだあと、釜ヶ崎で暮らしていたという赤軍を名乗る男が、女づれで東九条に住み着いたことがあるんや。自分じゃ働かへんで、女に働かせて、偉そうに革命理論をしゃべる男やった。私、むかっ腹たって、おまえ奥平みたいな命をかけた男を見てみいや言うて、そいつシバいて東九条からたたき出してやった」
 連合赤軍のあさま山荘事件につづいて、同志間の凄惨なリンチ殺人事件が発覚し、世間に衝撃をあたえたばかりだった。イスラエルの玄関口で起こった空港襲撃事件は、その延長にあるものとして日本ではうけとめられ、血と暴力にまみれた狂気の沙汰として大衆社会からは忌み嫌われていた。そうしたなかにあって、この人は、奥平には特別な思いを寄せつづけていたのである。
 同じような境遇で、同じような思いを抱えていた人は、ほかにもいる。ある人はつぎのような一首を詠み、奥平の霊に献じている。

人類の幸せ願ふますらをの 雲間に映ゆる陽をもみずして

 Mが椎間板ヘルニアで現場に立てなくなったあと、その役割を引き継ぐように奥平が請け負うことになった解体業者の親方の歌である(『天よ、我に仕事を与えよ』「V 奥平剛士を語る/3 西条氏夫妻から」。以下の引用も同)。血も涙もない無軌道な狼の仕業だと日本人の大半が思い込んでいるときに、「人類の幸せ願ふますらを」として彼をとらえていることに、私はおどろきを禁じ得なかった。
 その西条夫妻の家と事務所は東九条からは離れたかみ賀茂がものあたりにあったらしい。いまはどうしているのか、私にはたどれなかった。奥平は京大工学部の後輩たちを集めて、パレスチナへ向かうまでのわずかなあいだではあったが、西条氏の仕事を請け負っていたのである。それは重信房子がはじめて彼のもとを訪れた時期と重なる。夫妻はこのように話している。

西条 奥平の兄貴はやさしかったな。とにかく涙ある男だったよ。ほんまに真の涙顔をもっとる男だったよ。(中略)


 まあ世間一般の人は、赤軍いうたら、浅間山荘があったやろ、あれとごっちゃにして(中略)私がいま働いている所でも、黙って聞いてると赤軍がどうとかいうて、浅間山荘でもきつかったやないか、いうてね……。私は胸が煮えくりかえってきてね。


西条 おれは「だまれ、貴様、わからんといて何ぬかすんや」、言うたことあるわ。カーッときてな。まあ、いまから思うと、兄貴はやっぱり完璧に近いまでにあったように思えるもんね。そりゃあ人間やから弱い面もあり、いろいろあったやろうけれど……


 あの人にできないことはないという感じやね。腕にかけても、労働のことにかけても、頭のさえたことにしても……


西条 おれらでもそう思うね。人にできることでできんことはないと思う。そういう気構えはもってるね。(中略)


 でも、あの人が死んだときには、惜しい人を亡くしたと思ってね。まあ、みんなもそうやろうけれど、一ヶ月ぐらいというもの、自分のからだが抜けたみたいやった。(中略)


西条 兄貴も死んだらいかんかったよ。死なんと生きておって、あとの指導をしてやらんといけん人間だったよ。 

 夫妻の話しぶりからも、奥平という青年がいかに図抜けた能力と体力に恵まれ、リーダーとしての才覚を備えていたかが伝わってくるようだ。
 解体工事と建築の土台づくりを専門とする西条夫妻の会社では、弟の純三も兄の下で汗を流していた。西条氏が「兄貴」と言うのは、そのためである。
 私は肉体労働に汗を流す奥平のリアルな姿を知りたかった。留年につぐ留年で七年も大学生活を送りながら、そのいっぽうで、たいていの人なら寄りつこうともしないスラムを根城に、放り出すことなく肉体労働に明け暮れている。彼はいまや押しも押されもせぬ棟梁として、ほうぼうの建築現場で頼られる存在となっていた。いつでも辞めることのできる学生アルバイトではなく、それをするしか生きるすべのなかったY氏のような人から見たら、どんなふうに映っていただろうか。
 Y氏は一九五〇年四月三〇日、土方暮らしの父のもとに、八人きょうだいの長男として九条河原町下ルで生まれた。もともと父親は崇仁の被差別部落の生まれであったが、戦争中の強制疎開で東九条に移り住み、一家一四、五人がバラック建ての小屋で身を寄せあって暮らす日々。小学五年生で段ボール製造工場に丁稚でっち奉公に出されたときも、なんの疑いももたなかったという。
「そういう世代の、私が最後やね」
 と、Y氏は言う。
「生活保護で暮らしてる親から丁稚に行けと言われて、当然のことのように出たんやね。長男だし、まだ小さい妹たちもいたからね。自分の生活は自分でする、自分の力で一丁前になる、というのがあたりまえやったから」
 夜間中学の二年から学びなおしをはじめ、学生セツラーグループの「兄弟会」がひらく「青春教室」で読み書きを学び、マルクス、レーニン、毛沢東などの社会主義や共産主義の思想についても学ぶようになった。彼らは「出口の見えない町で生きる自分みたいな子どもにとって、はじめて社会にひらかれた窓」であり、「ありがたい人たち」だった、とY氏は言う。
 転機が訪れたのは一七歳のとき。それはひとことでは語りきれぬいくつかの出来事で成り立っている。段ボール工場をやめて、ある職場に働きに出たとき、女性と恋愛関係になった。ところがある日、まったく突然に別れを告げられた。理由も言わずに立ち去っていく彼女を見送ったあと、しばらくたって人づてに聞いたのは、「部落の人だから」という理由。生まれてはじめて部落差別というものをじかに経験し、部落とはなんなのか、どうしてこのような差別をうけなければならないのかと思いまどっていたころ、Mと知りあったのである。
 夜間中学で映画の上映運動に取り組んでいる人物から引きあわされたとき、Mはヘルニアの手術をうけたあとだった。熱心に部落史を勉強する姿勢を見込まれたのだろう、共産党員であった彼の薫陶をうけてY氏も同党に入党している。その一年ほどまえ、すでにセツルメントを辞めていたはずの奥平剛士が、どういうわけかほんの半年程度ではあったが民青同盟に加盟していることを考えると、やはり彼にもMの影響があったのではないかと考えられる。
 とはいえ、Mには(そして奥平にも)共産党にたいする積極的な共感や思想的傾斜があったのではなく、むしろ一九六七年のこの時点では、政治性をあらわにして東九条の地域づくりに乗り出してきた党にたいして、またその影響下にある学生セツラーにたいして、彼ははげしくぶつかっていった。
「頭でっかちな運動理論だけで地域づくりなどできるものか。一個の人間としてスラムの人間ひとりひとりの懐に飛び込んでいけ」
 と、彼は学生たちに迫り、ときに容赦なく鉄拳をふるった。
 いわば彼は、民青や共産党の主流からすれば反党的分子なのであって、セツルメントを離れながら民青に加入した奥平にしても、同盟員であろうとするよりもむしろ、ともにスラムや部落の人びととツルハシをふるい、同じ飯を食い、身も心もそこに溶け込むことによって、スラムそのものであろうとしたのではなかろうか。
「奥平のアニキは、いつも下駄を履いていた。頭は短く刈って、くりくり坊主みたいやった。髪は伸びるにまかせて、前髪が眉毛にかかるくらいになったら鋏で切る。そしてバリカンをかけて丸坊主にする。ぼくらと一緒や」
 と、Y氏は言葉を継ぐ。
「土方をさせたら、だれにも負けへん。Mさんの指導がきびしかったこともあるやろうけど、アニキはそれを当然のこととしてうけとめ、そしてそれ以上であろうとした。喧嘩でも土方でも議論でも、Mさんには絶対に負けへんという、つよい気構えや。基礎の地面を掘るのが自分らの仕事の基本。Mさんは言う。長さ一〇メートル、幅一メートル、深さ一メートル、これを一日で自分ひとりの力で掘って一人前の土方やと。いまでも忘れへん。朝八時、亀岡の現場に集合という日、アニキは京都から一八キロの道のりを自転車で走ってくるんやね。そしてぼくらが着いた八時には、もう自分の持ち分を掘り終えていた。朝五時に現場に着いて掘りはじめたというんやから、かなわへんねん。だからといって、それで仕事をあがるわけやない。ほかの力の弱い連中に掘りかたを指導して、こうやるねん、見とれ言うて、黙々と土を掘る。だからアニキの体つきは、たくましくなっていった。あんな熱心な人間、見たことないで」
 Mの話とも符合するので、以下に引用する。

 はじめは、キュウリみたいな体しとるな、言うとったわけや。それが下を向いて、『くそー、くそー』言うて、土を見ながら掘ってるわさ、それを見てみいな、気迫がちがうもん。それで昼めし食うときは、とにかくガッガッガッと食うて、それでガッガーッとやるやろ。だから、もっている気迫がほかの学生と全然ちがう。たいがいの学生やったら、『おのれ、こら』言うと、あっち向くやろ。それがもう剛士には全然あらへん。ふーんという感じや。
 わしから見たら、あいつはもう絶対に、こうカチッとした形のなかでしか動かんわ。あいつは常に対等の立場で見るからね。(中略)
 留年の頃に本当に人生が変わったんやないかな。(中略)苦しい時期と同時に、大衆の中にはいり込めたという喜びの時代であったんやないかな。いっぱしの男になれた、という時代だったと思うよ、わしは。(中略)
 あんな奴、これから生まれへんで。ああいう形で土方をする人間というのは。

(同書)

 そう言って彼は一枚の写真を手にとり――それは軍事訓練をうけているパレスチナの遺跡かどこかの草むらで、安田安之やすだやすゆきとふたりでくつろいでいるようすを撮ったもの――しみじみと言うのである。
「この写真、わしが行けなんだから、あいつが行ったときの写真見とんやけどな……、たくましい身体になっとるやろ」(同書)
 まるで血を分けた兄弟のようにそう語るMは、やはり一緒にパレスチナへ行きたいと願い、奥平からも決意を打ち明けられていたのだ。
 では、本人はどうだったのだろうか。
 奥平は労働するよろこびについて、日記に以下のように書き綴っている。このように率直で、飾りけのない、それでいて詩的霊感に裏打ちされた文章をしるす青年とは、何者なのであろうか。

 今日の空は美しかった。
 朝からバイト、河鹿荘の型枠バラシ。
 足場にのって夢中でバールをふるい、パネルをはずし、上におしあげようとあおむいた顔が、ぱっとまっ青にそまるようなのだ。上にいる大山のおっさんの顔まで生き生きと浮き出して、無限の青さの中に仁王だちになったたくましい労働者の象徴のように美しかった。何度も上をむいては、思わず大声で叫びたいような、時間をこのままとめてしまいたいような、幸福をあじわった。仕事はしんどくない。あぶないだけだ。汗がだらだら流れても少し休めば涼風にすっとひいてしまう。
 遠く比良が、なだらかに横たわる。東山は色がかわりつつある。すべてが透明な光の中で自分を最大限に主張する原色の美しさよ。
 ああそうだ、これこそ自然だ。
 こせこせと泣いたり笑ったり、あせったり、ひがんだりする人間を超越したところにある本質そのものだ。
 この落ち着きをみろ。
 この空の青さをみろ、すべてがここにある。

(一九六六年一〇月二九日)


 十月の空の青は、二一歳の青年の皮膚が半透膜ででもあるかのように内部細胞の隅々にまで満ちわたり、たったいま、ここに生きてあることのよろこびを高らかに謳わせている。
 肉体労働をはじめて二年あまり。いよいよ充実してきた筋肉は、脳からの伝令を待つまでもなく、仕事のはじまりから終わりまでの全工程を、その部分や細部を、段取りを、道具を、そしてなによりチームワークとそれをささえる人夫ひとりひとりの資質や技量を、自己と一体化させ調和させる動作を容易にしている。「これこそ自然だ」と全身全霊で叫ぶとき、おそらく彼には優れたアスリートに訪れるらしい、あの「ゾーン状態」と呼ばれるような特別な体験が訪れているのではないだろうか。「思わず大声で叫びたいような、時間をこのままとめてしまいたいような、幸福をあじわった」とき、ドストエフスキーの言う、あの「永遠の調和の一瞬」(『悪霊』)を彼は思い出しはしなかっただろうか。
 これは頭で考えて書かれた文章ではない。「自然」なるものに感応し同化しうる肉体と精神を獲得した霊魂が、このように書かせている。「何かキラッとした、嬉しいことが一年に三回あれば充分だ、一回でも過ごせる。あとはどんな苦しいことでもやるんだ」(『天よ――』)と友人に語っているように、この一場面もまた、そうした体験のひとつであったろう。
 単独行の山旅といい、岡山への自転車での帰省といい、自己の限界をどこまでも追い求めようとする行為のなかで、同様の体験をおそらく彼は何度かしている。そうした「特権的体験」を人に正確に伝えるのはむずかしい。理解してもらうのは、もっとむずかしい。だから寡黙になる。ましてやそんなことを、ともに汗を流す仲間であり、日々それで家族を養っている在日朝鮮人や被差別部落民に語るなんて恥ずべき行為だとわきまえていただろう。
 学問の専門化(細分化)がすすむ時代にあって、子どものころ父から買ってもらった『プルターク英雄伝』を片時も放さなかった彼は――同じ現場で土方をしていた京大OBのひとりは、「休み時間になると彼は『プルターク英雄伝』をひろげていた」と私に話している――、ギリシャ・ローマ時代のような、ルネサンス時代のような、総合力をもった人間でありたいと願っていたのではなかろうか。
 Y氏はこのとき一七歳。彼と知りあってまもない。
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