ニホンゴ「再定義」 第19回「大予言」
要するに1999年の7月は結局たいしたことなく過ぎて、破滅予言としては大ハズレだったわけだが、それで万事オッケーとはいえない。なぜかといえば、予言が外れたからといって、文明滅亡へのカウントダウン要因として挙げられた諸要素がそれでチャラになったわけではないからだ。確かにオカルト要素濃い目の予言本で語られる環境危機やエネルギー危機は、ネタ的にかなり脚色されていたと思われる。しかし大地震にしろ夏の災害的酷暑にしろシベリア永久凍土の融解にしろ、1999年から10年20年を経て、それぞれ意外なほどに予言本のイメージ通りのどぎつさで具現化してしまっているではないか。予言の当たり外れよりも、実はそっちの方がよほど問題といえるだろう。
言い換えれば、1999年の7月に「死」を迎えてそこですべて終わりになるならまだしも、その境界を越えて痛みや苦しみの感覚が滅ばずに持続して、さらにそのボルテージが次第に増していく状況がそこにある、といえるだろうか。
うむ、これはキツい。
結局のところ、予言というのは当たるかどうかという表面的な目的性が重要なのではなく、そこで掻き立てられる問題意識の多様さが、やたらと人心を疲弊消耗させがちである、という点に真の重要性(と問題)があるのではなかろうか。それによって暴かれる人間的真実というものが無くもなかったりするあたりがまた面倒だが。