夏川草介 特別読切「青空」
敷島の勤める信濃山病院は、北アルプスのふもとにある小さな総合病院である。
感染症指定病院としてすでに一年近くコロナ診療に従事し、多くの患者を治療し、無事退院させてきた。
診療開始初期は、感染対策は不明、治療法は不明、死亡率は不明、後遺症も不明という、すべてが未知の領域であり、文字通り手探りの医療であった。
この正体不明の感染症に向き合ったのは、専門外の内科医と外科医が集まった混成チームである。『命がけの診療』という言葉は、誇張ではない。クルーズ船内では着実に感染が拡大しており、患者の死亡報告も途絶えることなく続き、防護服を着た医療スタッフの感染も報告されていた。そんな中でのクルーズ船の患者の受け入れは、『命がけ』という非日常的な言葉でしか表現できない緊迫感を伴っていた。感染症病棟に初めて入る日の朝に、家族に遺書を渡した医師もいたのである。
そのぎりぎりの状況を、背後から支え続けたのが筑摩野中央医療センターである。大学病院を含むその他のすべての医療機関がコロナ診療を拒否する中で、朝日らの呼吸器チームだけが受け入れを表明し、重症患者を引き受ける体制を構築したのだ。
そうして一年近くを、なんとか大きなトラブルもなく乗り越えてきたのだが、年末から大きく様相が変わり始めていた。
昨年は一年間を通じて、信濃山から医療センターに搬送した患者はわずか数名しかおらず、敷島が搬送にいったのも一人だけであったが、年末から目に見えて感染者が増え始め、以前にはなかった頻度で酸素化の悪い患者が出てきている。
敷島がかかわった症例ではないが、一月二日までの一週間だけでも、搬送患者は二人。一月三日の敷島の搬送患者をいれれば、すでに三人という異様な密度であった。
変化は無論、搬送状況だけではない。
どこよりも異様な気配を帯び始めたのは、コロナ診療の最前線である発熱外来であった。
「いや、それは無理ですよ。うちだってもう限界なんですから」
一月五日、夕刻の発熱外来に、ひときわ大きな声が響き渡った。
丁度診察室から出てきた敷島が、思わず足を止めたほどであった。
診察室や処置室、資材庫などをつなぐ廊下の片隅に、内科部長である腎臓内科の三笠が携帯電話を片手に立っている。廊下には、防護服やマスク、ガウン、ゴーグルその他の物資が山のように積み上げられ、その物資の壁の間を、医師や看護師が忙しげに往来している。
辺りには、様々な音と声が飛び交い、なかなかの喧騒だ。
発熱外来の診療は原則iPadで行われるから、各診察室からは、端末に向かって叫ぶ医師の大きな声が聞こえてくる。そこに各部署の連絡のためのPHSのコールが鳴り響き、患者からの電話が鳴りやまず、他の医療機関からの問い合わせも飛び込んでくる。普通に会話をするのも容易でない騒がしさだ。
「あと三人? 入るわけないでしょう。昨日と今日の二日間でいったい何人入院させたと思っているんです」
内科部長の三笠は、あくまでゆっくりと会話しているが、その左手は豊かな白い髪を無造作に掻き回している。言葉の内容から、電話の相手が保健所だということがわかる。
「検査はできます。一時間以上待たせますが、検査はできます。しかし入院は無理です。もともと年末の段階でベッドはぎりぎりだと言ったはずです。三が日が明けてたった二日でこれだけ入院させれば、回転するわけがないでしょう」
三笠は、透析センターを統括する腎臓内科医でもあるとともに、内科全体の統括責任者でもある。普段は多忙な業務の中でも、温厚で思慮深く振る舞い、声を荒らげることもないドクターだ。
その三笠の声が、ところどころ裏返っている。
「また入院依頼なのか?」
敷島は、すぐそばで患者ファイルを積み上げていた若い看護師に問うた。
「駅前のカラオケ店でクラスターだそうです。学生四人で五時間騒いだあと調子が悪いといってPCRをしたらそろって陽性とのことです」
四人、と敷島は思わず天を振り仰いだ。
平岡を医療センターに搬送したのは一月三日。正月があけてから、四日と五日の、わずか二日が過ぎたばかりである。そのわずか二日で、発熱外来には先月の一週間分の患者が押し寄せている。
「昨日の受診者は三十人を超えていたと聞いたけど」
「発熱外来だけで三十一人で、そのうち陽性者が十人です」
現場の歯車となって働いている敷島には、全体像がかえって見えにくい。改めて具体的な人数を耳にすれば、途方もないことになっている。
陽性者の半数はホテルに送り込んだはずだが、残りは入院であるから病棟の混乱具合も想像に難くない。
「学生ならホテル行きでいいんじゃないか?」
「そうしたいところなんですけど、ふたりが40℃を超えていて、息が苦しいと言っている子もいるらしいです」
入院治療が必要な可能性があるということだ。
眉を寄せつつ窓外に目を向ければ、駐車場にずらりと並んだ一般車の間をiPadを抱えた防護服姿の看護師が駆けすぎていく。
発熱外来は、車の中にいる患者に病院のiPadを手渡し、屋内にいる医師のiPadとつないでオンラインで診療するのが原則だ。コロナ陰性が確認されるまで原則患者を院内に入れない。安全のためとはいえ、ひとつひとつに複雑な手順と多大な労力が必要であり、一般診療よりはるかに時間がかかる。来院患者が増えれば、病院前にそのまま長い車列ができることになる。
「わかりました。その二人だけならなんとかします。今日はそれで最後にしてください」
いくらか声を落ち着かせて答えた三笠は、先方の返事を聞いて、すぐに眉を寄せて厳しく応じた。
「別にベッドを隠し持っているわけではありません。一人用の個室に何人かまとめて押し込めるだけです。五時間も密室でカラオケができるようなお友達なら、それくらい我慢できるでしょう」
「三笠先生もだいぶいっぱいになってきましたね」
看護師のつぶやきに、敷島は答える言葉を持たない。
その間にも別のPHSが鳴り響き、背後にいた感染症チームの看護師が何事か苛立った様子で抗議の声をあげている。
時刻はすでに夕刻だが、おそらく多くのスタッフが、昼食どころかわずかな休憩にも入れていない。むろん敷島も同様だ。
「ぎりぎりだね」
「敷島先生くらいですよ。いつでも淡々と仕事をしているのは」
「淡々としているつもりはないんだけど」
「つもりはなくてもそう見えます。冷静な先生がうらやましいです」
敷島としては冷静なつもりはない。
むしろ決断することに対して自信がないから、じっくりと物事を眺める習性がついているだけだ。人からは寡黙だ、冷静だと言われるが、物事の決断に自信がないから、あれこれ言わずに、目の前のできることを積み上げていく生き方になっているだけである。敷島自身の目には、自分は単なる小心者に過ぎない。その姿が外からは冷静に見えるのだとすれば、皮肉以外の何物でもない。
「敷島先生!」とふいに鋭い声が届いた。
振り返れば、駐車場につながる廊下の奥で、防護服姿の看護師が声を張り上げている。
「車中待機の患者がお腹を痛がっています!」
床と壁に赤いテープが張られたその先は、コロナ陽性患者が往来する可能性がある領域で、そのまま駆け寄っていくわけにはいかない。
敷島は、右手に持っていたファイルを卓上に投げ捨てると、そばの棚からキャップ、フェイスシールド、ガウン、手袋を手早くかき集めた。
iPadで行ういわゆる「オンライン診療」は口で言うほど便利なものではない。
はっきり言えば、iPad越しにただ会話をするのと、実際に診療をするのとは、まったく別の行為である。
診療という行為は、ただ言葉から情報を得ているわけではない。患者の顔色、微妙な動作、活力の有無や目線など、全体からそのキャラクターや重症度を拾い上げる。そこに身体診察をくわえることで、医師は患者の全身状態を掴むのである。
iPadでは身体診察ができないことは当然だが、相手の顔すらまともによく見えない。目線を合わせるということがもともと難しいし、年配の患者であれば画面の中に顔の半分も映っていないことや頭頂部しか見えていないこともあり、ちゃんと顔を映してくれと頼んでも応じられない患者は少なくない。あれこれと注文を繰り返しているうちに患者の側が怒り出すことさえある。
それでもなんとか会話できるならまだしも、来院時に看護師が渡しているはずのiPadに何度コールしても出てくれない高齢者もあり、その場合は防護服を着た看護師が、もう一度車まで足を運んで操作方法を教えなおすことになる。
当然のことだが、発熱患者は、全員がコロナ感染症というわけではない。話を聞けば膀胱炎であったり、痛風であったり、なかには微熱があるだけで診療所から拒否された骨折の患者まで交じっている。
敷島が腹痛で呼ばれた患者は、結局急性虫垂炎の診断で、そのまま外科で手術となった。普段の外来なら腹部診察だけですぐにCTに回され、たちまち診断がついたはずの症例だが、発熱があったために朝から二時間以上も車内で待たされていたのだと言う。
「アッペ(急性虫垂炎)患者を二時間も待たせなきゃいけないなんて、ひどい話ですよ」
夜の医局に、そんな開けっ広げな声が響いた。
時刻はすでに夜八時。
医局のソファに大柄な身を預けてうそぶいているのは、手術を終えてきたばかりの外科医の龍田である。
元ラグビー部で胸板の厚い大柄な龍田は、八年目の外科医だが、コロナ診療の最前線を支える強力な戦力のひとりだ。今日も、虫垂炎患者をスムーズに手術につなげることができたのも、ちょうど隣のブースで龍田が発熱外来を受け持っていたからである。
「その様子だと、手術は大丈夫だったみたいだね」
敷島の言葉に、龍田は大きな肩をすくめる。
「虫垂の一部に微小穿孔があって、腹膜炎になっていました。もう少し待たせていたら危うかったかもしれません。先生がすぐ駆けつけてくれて良かったですよ」
「もう少し早く気づければ良かったんだが」
敷島は、カップラーメンに湯を注ぎながら答えた。夕食ではない。昼食である。
敷島はカップを持って、ソファから離れた壁際の椅子に腰かけた。