夏川草介 特別読切「青空」

『コロナ』第1話読み切り


 医局と呼ばれるその部屋は、以前は医師たちの談笑の場であったが、今では広い医局も同席できる人数が三人までとされ、飲食をする場合は隅の窓際でひとりに制限されている。

「これだからオンラインの発熱外来は危ないんです。熱があるってだけで一まとめにしちゃうから、あんな難しい外来はありませんよ」

 龍田のぼやきは敷島にとっての実感でもある。

 発熱外来と言えば聞こえはいいが、具合が悪くて病院にくる患者というのは、だいたい熱が出ているものであろう。

「そういえば、あのあと発熱外来は大丈夫でしたか? 手術で俺が抜けちゃったし……」

「三笠先生が手伝ってくれたよ。現場の問題は現場で片づけると答えたんだけどね、患者さんを診ている方が気分が落ち着くと言っていた」

「三笠先生、だいぶ疲れてますよね」

「保健所との連絡役に加えて、他の医療機関からの受け入れ依頼の窓口にもなっている。そこに緊急会議の連続だ。年末年始も一日も休んでいないだろうね」

「でも僕らだってきついですよ。もう長いことコロナ診療を続けてきて、相当疲れているこのタイミングで患者の急増です。それなのに、まだまだ患者が増えるって話じゃないですか」

 龍田がぼやきながらソファから身を起こし、テレビのスイッチを入れた。

 おりしもニュースは本日のコロナ感染者が過去最高を記録したことを報道している。都市部のみならず、複数の県で増加傾向だとキャスターが無闇に眉を寄せて繰り返している。

 一日の新規感染者数は、3654人。

「マジか……」

 龍田の絶句を聞きながら、敷島はラーメンのふたを開け、箸を取った。陰気な医局の雰囲気に不似合いな、陽気な匂いが立ちあがる。

「死者も増えているみたいだね」

 敷島は、テレビ画面に並ぶ数字から、もっとも危惧すべき数字だけを拾い上げる。

 死者、56人。

 極論を言えば、感染者がどれほど増えても、死亡者が増えなければいい。逆に死亡者が増えるということは重症者も増えるということで、医療状況はたちまち限界になる。

「死者の数、結構やばい勢いですね」

 龍田が太い眉を寄せて言った。

 一日の死亡者数が初めて三十人を超えたのは、ほんの一か月前である。わずかな期間で死者が倍増しているにもかかわらず、テレビのニュースはまるで明日の天気を伝えるかのような平易な態度で数値を示している。

「この間なんか、新規感染者は若い元気な世代ばかりだから、医療にはすぐには影響が出ない。まずは冷静に対応を、なんて言ってる専門家がいましたが、一度頭のCTでも撮った方がいいんじゃないかと思いますよ」

 そんな苛立ちを含んだ声の向こうから、テレビに映った政治家の大仰な声が聞こえてくる。

 迅速な対応、躊躇なく決断、有効で適切な対策、正しく恐れて下さい……。

 新しい言葉はひとつもなく、具体的な対応策も皆無である。

 もう一年も前から繰り返されてきた決まり文句が、焼き直しで繰り返されているだけだ。唯一、「緊急事態宣言発出を検討中」という言葉が聞こえてきた。

「どうしてこんなに現場の空気と乖離しているんですかね」

 龍田がテレビを睨みつけたまま告げた。

 ラーメンをすすりながら敷島は耳を傾けている。

「ここ一週間の患者の増え方は異常ですよ。外来だって病棟だって、あっというまに限界に達しているんです。こんな田舎でさえそうなのに、東京なんてもう医療崩壊を起こしているんじゃないですか?」

 そうかもしれないと敷島は思う。

 一般診療に支障が出ている状態を『医療崩壊』というのであれば、虫垂炎の患者を二時間も待たせて急変させているような現場は、すでに崩壊と言ってよいだろう。

 しばしば、経済と医療、どちらを取るべきかという議論を耳にする。例によって敷島は結論を持たない。できればじっくりと考えてみたい問題だが、現状、そんな時間も余裕もない。ただ、テレビの報道に関しては、明らかにバランスを欠いていると感じている。

 経済に関する危機感や不安感の話題がかなりの領域を占め、医療危機に関する報道は、ないとは言わないまでも相対的にかなり乏しく見える。

 報道が虚偽だとは思わないが、比率がこれだけ偏っていては、事実は容易に本質を変えて伝わることになる。その本質を変えた情報の上で議論がなされているのだとすれば、当然「緊急事態宣言発出を検討中」などという結論になるだろう。

「あの政治家の背後に回り込んでタックルを食らわせたくなりますよ」

 テレビに向かって気焔をあげる龍田に、さすがに敷島は苦笑した。

「政治家にも立場があるのだろう。人の動きを止めれば経済が止まる。多くの人の生活がかかっている」

「僕たちは、命がかかってるんです」

 思いのほか強い言葉が返ってきて敷島は箸を止めた。

「僕たちは、毎日命を危険にさらしながら働いてるんですよ。でもその分を保証しろなんて言いません。だいたい世の中のほとんどの人たちは、なんにも言わずに黙って耐えてるんです。テレビだけがバカみたいに、国中の人が経済を心配して不安と不満をかかえているみたいな報道してるんじゃないですか。お金の話も大事でしょうが、死んだらどうにもならないんですよ」

 まだ三十代前半の龍田の発言には、若さがにじんでいる。と同時に、単に若いと笑い飛ばせない切実さも含まれている。

〝命がかかっているんです〟という言葉は誇張ではないだろう。

 龍田には、昨年生まれたばかりの子供がいたはずだ、と、ふいに敷島はそのことに思い当たった。

 発熱外来で直接、陽性患者を診察した日は、龍田は自宅に帰らず病院に泊まっているという話も耳にしている。危険な外来を拒否することもせず、懸命に働きながら、家族を守るために自宅にも帰らない。しかもその状態を何か月も続けている。陽性者が急激に増えていることを思えば、最近はまともに帰宅していないかもしれない。

 それが正しいかどうかではない。

 そうすることでしか、守るべきものを守れない現実があるということだろう。

「すみません」

 ふいに龍田がそんなことを言った。

「敷島先生に言うべきことじゃなかったですね。先生が一番たくさんの入院患者を診てるのに……」

「いつも一番だとは限らないが……」

 まったく気の利かない返答だと、敷島は自分でも思う。ゆえになんとなく言葉を選びながら続ける。

「私もできれば逃げ出したいし、たまにはゆっくり家族と夕食を食べたいと思う。しかし現に患者は多いし、幸い私はまだコロナにかかっていないから、もう少しがんばるしかないのだろうと思っている」

「敷島先生ってすごいですよね」

 どこまでも消極的な言葉に対して、思わぬ返答がかえってきた。

「みんな結構いらいらしてきているのに、先生っていつもと変わらず冷静じゃないですか。あこがれますよ」

「私は小心者なだけなんだが……」

 さすがに敷島は困惑する。

「戦うにしても逃げ出すにしても勇気というものが必要だが、私はどちらも持ち合わせていない」

「よくわかりませんけど、でも先生が来ると荒れた空気の外来が、ちょっと落ち着くことがあるって誰かが言っていました。僕も同感です」

 龍田が笑ったそのタイミングで、PHSがけたたましい音を響かせた。

「はいはい」と龍田が胸ポケットに手を伸ばす。

「ああ、そうだよ……、腹痛? そりゃそうだよ。手術が終わったばかりじゃんか。痛み止め使ってくれていいよ」

 会話の内容はコロナではなく手術患者の件であろう。外科も内科もコロナ患者の対応に追われているが、だからといって一般診療を投げ出してよいわけではない。

「了解、すぐ行くよ」

 言いながら龍田はソファから立ち上がる。

「先生、また愚痴を聞いてください、お疲れ様です」

 龍田のそんな声を、敷島は会釈とともに送り出した。

 静かになった医局で、カップラーメンをすすり、テレビを眺める。

 テレビはいつのまにか、レストランのオーナーの取材場面になっている。客の減少による赤字、補償が必要、抜本的な生活保障など、これもまたさんざん聞かされてきた決まり文句だ。

 その間に、医局には何人かの医師が顔を見せ、去っていく。

 出入りしていくのは、全員がコロナ診療に携わっている内科と外科の医師たちだ。

 龍田の上司である外科の千歳がいる。大きな腹を揺らした肝臓内科、日進の姿もあり、内科でただ一人の女性医師である音羽も会釈をして出て行った。

 皆、一様に疲労の色が濃い。きっと自分も似たような顔をしているのだろうと敷島は淡々と感じながらラーメンをすする。

 カップラーメンを食べ終わったちょうどそのタイミングで、PHSが鳴り響いた。発信者は、内科部長の三笠である。

〝敷島先生、今大丈夫ですか?〟

「大丈夫です」

〝救急隊から連絡がありました。これからひとり、高熱を出しているコロナ疑いの患者が来ます……〟

 これからか、と見上げた時計はまもなく九時。

〝六十五歳の男性。三日前に東京への移動歴があり、今朝から熱と味覚障害〟

「陽性で間違いなさそうですね」

〝私もそう思います。ちなみに市内の女鳥羽川総合病院がかかりつけで、複数の抗がん剤を投与されている患者です〟

「では、CTか抗原検査だけでもやってくれていますか?」

〝いえ……〟

 三笠は、わずかに言葉に詰まるように止まったが、すぐに続けた。

〝受け入れ事態を断られたとのことです〟

 残念な話ではあるが、慌てることでもない。

 すでにここ数週間、繰り返されていることである。

「了解です、しかし入院のベッドは?」

〝つい先ほど、呼吸状態が改善してきた患者をひとり、ホテルに移動させました。今ならひとり入れます〟

 まさに自転車操業である。

 一拍おいて三笠が問うた。

〝さすがにこの時間はきついですね〟

 敷島はたしかにきつい。

 しかし当然三笠もきつい。

 搬送や外来や入院に奔走する立場と、保健所とやりとりしながら足りない病床をなんとか回転させている立場とどちらが辛いか、これも判断はできない。

「患者の方は大丈夫です。むしろ先生こそ大丈夫ですか?」

〝大丈夫ですよ〟

 機械的な即答は、微塵も大丈夫な様子ではない。しかし今の敷島に手伝えることもない。

「受け入れの準備を始めます」

 敷島の短い応答に、三笠のありがとう、という声が聞こえた。  

 

 

夏川草介(なつかわ・そうすけ)
1978年大阪府生まれ。信州大学医学部卒。長野県にて地域医療に従事。2009年『神様のカルテ』で第十回小学館文庫小説賞を受賞しデビュー。同書は10年本屋大賞第2位となり、映画化された。他の著書に『本を守ろうとする猫の話』(米国、英国をふくめ20カ国以上での翻訳出版が決定)、『神様のカルテ2』(映画化 2011年本屋大賞第8位)、『神様のカルテ3』、『神様のカルテ0』『新章 神様のカルテ』『勿忘草の咲く町で 安曇野診療記』『始まりの木』がある。

 


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◎編集者コラム◎ 『警部ヴィスティング 鍵穴』著/ヨルン・リーエル・ホルスト 訳/中谷友紀子
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