小原 晩「はだかのせなかにほっぺたつけて」第7話
第7話
まるまった妻
肉体関係はありませんでしたけど、恋愛関係ではありました。
妻の洋子はそう言って、部屋の隅でまるまってしまった。
僕は呆れて放っていたのだけれど、朝がきても洋子はまるまったままだった。
そんなにまるまっていたって仕方がないだろう。
そう言ってみても、首をふりふりするばかりでしゃべらない。
ものは試しと、つついてみる。
ひとさし指で、鉛筆についてる消しゴムのほうで、菜箸で。
つついてみる。
反応はまるでない。
声をかけてみる。
お腹はすかないのか。
洋子は、首をふりふり横にふる。
僕がいない間に、トイレに行ったりはしてるのか。
洋子は、こくこく頷く。
じゃあ、ほんとうは動けるのか。
洋子は、こくこく頷く。
なら、もういいから。話し合おう。そうしよう洋子。
洋子は、首をふりふり横にふる。
もう、僕たちはやり直せないのか。聞くと、
洋子はもっとかたくなに、まるまった。
それからは、首をふったり、頷いたりすることもなくなった。
土曜日は一日中、まるまっている洋子の横に座って過ごした。
洋子は仕方なさげに立ち上がり、お手洗いへ立って、またすぐに何事もなかったかのようにまるまったりした。僕は洋子の尻が、かたいフローリングにずっとついたままで痛くないのか心配になって、洋子がトイレに行っている間に座布団をしいたけれど、洋子は座布団をどけて、かたいフローリングに尻をおとした。
その日の洋子は何も食べなかった。カレーをつくって、目の前に置いてやって、僕もとなりに座って食べたけれど、洋子はまるまったままで手をつけなかった。仕方がないので、洋子のぶんも僕が食べた。僕は、いつもカレーは二杯食べるから、ぜんぜんいいのだけれど。
僕がずっと横にいると、洋子は満足にトイレへも行けないし、ご飯も食べないから、日曜日は出掛けて過ごした。
しかしやっぱり洋子の様子は気になるから、ペットカメラなるものを買って、洋子には口頭で説明したうえで、テレビ台の上に置いた。
月曜日、会社へ向かう電車の中で、ペットカメラをみてみると、白い壁が映しだされていた。巻き戻してみると、僕が出て行ってからすぐに洋子は立ち上がり、ペットカメラを後ろに向けていた。つるつるとした顔だった。
洋子がまるまりはじめてから二週間が経った。
まるまっているからといって無気力な生活をしているわけでもないようで、洋子は毎日風呂に入っているようだったし、着ているTシャツも三日に一度は変わった。冷蔵庫にいちごを入れておけばワンパックきれいに平らげたし、ときどきはゴミを出したり、新しく始まるドラマの録画予約も済ませているようだった。
けれどやっぱり僕が家に帰ってくると、洋子はずっとまるまっていなければならなかった。僕がのぞんでいるわけではないけれど、洋子はそれをのぞんでいた。
僕は、洋子に自由に過ごしてほしい。もちろん、洋子が僕以外の人と恋愛関係になったことはかなしいし、腹がたつ。けれど、いますぐ別れたいとも思わない。まるまってからも、洋子の恋愛関係はつづいているのだろうか。知るすべがない。洋子は今日もふたりの家でまるまっている。
洋子の髪もずいぶん伸びた。
あいかわらず喋りはしないが、僕はその間にたっぷりと筋肉をつけて、まるまった洋子ごと持ち上げることができるようになった。夜になればベッドへ運んで一緒に眠り、映画を見る時はソファーに運んで頭の上から毛布をかぶせてやった。そうすれば洋子は毛布の隙間から映画を見ることができるのだ。もし感動して泣いているようだったら、毛布の隙間からティッシュを入れてやればチンと鼻をかむことだってできる。
いつか洋子がまるまるのをやめてくれたら、と想像することはある。僕の前で好き勝手にパンをかじったり、めんどうくさそうに洗濯物をたたんだり、動画で見た猫がやってて気持ちよさそうだったから、と食卓テーブルの上でゴロンとしたり、三歩あるけば忘れるようなたのしさだけのおしゃべりをしたい。
けれど、僕は泣くでも笑うでも怒るでもなく、ただかたくなにまるまったままでいる洋子に親しみをもちはじめている。まるまったままの洋子の重みを気に入っている。まるまっている洋子の体温をあいしている。あいしているのだ。
洋子はとつぜん、立ったり歩いたり喋ったりするようになった。
うごきはじめたのは夕立に降られた日の午後のことで、僕がプリンを買ってコンビニから帰ると、雨に濡れた洗濯ものを洋子はせっせと部屋のなかへうつしていた。それから、ふつうに話しはじめた。ふつう、というのは、もう一回洗わなきゃね。とかそういうことを言ったのだった。洋子はやっぱりつるつるとした顔をしていた。声はまるまる前よりすこし低くなっていた。濡れた洗濯ものを洗濯機に入れて回している間、洋子はソファーにどかっと座って録りためていたドラマを見始めた。僕はなにも言えなかった。おどろいていたから、というのもあるし、まるまっている洋子にはもうあえないのかもしれないと思うとさびしかった。
洗濯が終わり、手際よく部屋干しをする洋子は、僕に目を合わせることなく、すらすらと話しはじめた。
ごめんなさいね。でも、なんてことないのよ。私、たしかに恋愛関係ではあったけど、それ以上でもそれ以下でもなかったの。生活の延長に恋愛関係とおおよそ言われるようなもの、それはごっこあそびとなんら変わらない体質のものなのよ、そういうものが生まれてしまった時間があったの。ほんの一時間とか、一日とか、一週間とか、途切れ途切れにね。あとからあとからやってくる愛とは、端からちがう体質のものなの。
うるおった、低い声だった。
それよりなにより、どうしてまるまっていたの。僕は聞いた。
洋子はくすくす笑う。くすくす笑うだけで答えてはくれない。
ねえ、どうして。どうしてまるまったりなんかしたんだよ。僕はせめるように聞く。
洋子はもっとくすくす笑う。くすくすくすくすくすくす、くすくすくすくすくすくす、くすくすくすくすくすくす。
僕がこんなに本気で向き合っているというのに洋子は僕を馬鹿にしてくすくす笑う。こんな洋子はちっともかわいくない。まるまっている洋子のほうがどれだけかわいかったか。おまえはほんとうに洋子なのか。まるまっていない洋子なんて果たして洋子だといえるのか。
あなたも、まるまってみたらいいのに。洋子は簡単に言った。
僕はくやしくてくやしくてまるまった。朝がきても、仕事の時間になっても、休日がやってきても、髭が伸びてもまるまりつづけた。
小原 晩(おばら・ばん)
1996年、東京生まれ。2022年、自費出版にて『ここで唐揚げ弁当を食べないでください』を刊行。独立系書店を中心に話題を呼び、青山ブックセンター本店では、2022年文芸年間ランキング1位を獲得した。その他著書に、初の商業出版作品として23年9月に『これが生活なのかしらん』を大和書房から刊行。