こざわたまこ『教室のゴルディロックスゾーン』スピンオフ小説「ささやかな祈り」

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 こざわたまこさんの新刊『教室のゴルディロックスゾーン』発売を記念して、小説丸だけで読めるスピンオフ小説を掲載!
 なんと全部で6つの物語が楽しめます! お話はそれぞれで完結しているので、『教室のゴルディロックスゾーン』を未読の方でも安心してご覧いただけますが、本編読後の方がより楽しめるかと思います。
 5つめは、ある先生のお話です。


ささやかな祈り(ある日の戸塚とつか礼子れいこ

  

 踏みしめた霜柱がスニーカーの底で、しゃり、と小さな音を立てるのがわかりました。かじかんだ指先に息を吹きつけ、横断歩道の向こうに目を凝らします。生徒達が登校して来る気配はまだありません。この時間に校舎の周りをうろついているのは野良猫くらいのもので、この辺りを縄張りにしているらしい太ったキジトラが、電柱のそばで優雅にあくびをしているのが目に入りました。

 今日はどうしても朝のうちに終わらせたかった仕事があり、いつもより早めに出勤しています。自分の席で作業を進めていると、二十分ほどった頃に小森こもり先生が姿を現しました。小森先生はバレー部の顧問を務めていますから、生徒達の朝練のために体育館を開けに来たのでしょう。

「やや、戸塚先生。いつもこの時間に来てるんですか」

「今週は、挨拶当番なので」

 ああなるほど、と一瞬納得しかけた先生が、いやいや、それにしたって、と呆れたように首を振ります。

「いくらなんでも、早すぎませんか。先生は朝に強いんですね。お若いなあ」

「はあ」

 小森先生は、教師としては今年七年目の中堅どころです。明るく気さくな性格で、生徒達からも特に人気のある教員の一人ですが、年長者とのコミュニケーションには苦手意識を持っているらしく、会話に詰まるとすぐに「お若いですね」を連呼する癖があります。本人にとっては、それが最上の褒め言葉なのでしょう。早起きはどちらかと言えば、若さと言うよりもお年寄りの特徴のような気がしますが。それを指摘しようか迷っているうちに、小森先生は「あれ、俺また余計なこと言っちゃったかな……」とかなんとか言いながら、そそくさと給湯室の方へ去っていきました。そうこうしているうちに、朝の挨拶当番の時間です。パソコンを閉じて席から立ち上がり、外着用のジャージに袖を通して、校門前の定位置へと移動します。

 吹きつける一月の風に身震いしながら、ぐるりと首を回すと、さっきの野良猫は姿を消していました。年が明ければ、年度末まではあっという間です。期末テストが終わる頃には卒業式の準備も始まって、教員は来期に向けて、様々な雑事に追われることとなります。昨日(というか、すでに今日ですが)は明け方に、採点の途中で十五分だけ仮眠を、と思ったが最後、いつのまにかソファでぐっすりと寝入ってしまっていました。関節を動かすたびに、ばきばきと体のきしむ音が聞こえてくるようです。この年で夜更かしなんて、するものじゃありませんね。

 とはいえ、学校に遅れるわけにはいけません。普段から、あれだけ口うるさく時間を守れ、約束を守れと口をすっぱくして言っている人間が自ら規律を乱してしまっては、生徒達に示しがつきませんから。

 七時半を過ぎた頃、辺りにはぽつぽつと生徒達の姿が目につき始めました。眠たげにまぶたを擦りながら、こちらに近づいてくる豆粒みたいなシルエット。その影が少しずつ大きくなり、学校の敷地内に到着します。横断歩道を渡ってすぐ、わたしの姿を見つけた生徒達の反応は様々です。元気に挨拶をしてくれる生徒もいれば、うげぇっ、とあからさまに嫌そうな顔をする生徒もいますし、友達との会話に夢中で、おざなりに会釈を返すだけの生徒や、びくりと体を強張こわばらせ、ぱっと眼をそらす生徒もいます。その他にも、出がけに親と喧嘩したであろう生徒、何かはわからないけどいいことがあったらしい生徒、連日の塾通いに疲れている生徒、クラス内の人間関係に悩んでいる生徒。たくさんの生徒達が、一人、また一人と校舎に吸い込まれていきます。

 わたしは自分が生徒達から(ともすれば、同僚の先生達からも)、「かたぶつで」「冗談の通じない」「時代遅れの」「つまらない教師」と呼ばれていることを、よく知っています。若い頃なら、彼らのそんな言葉にいちいち傷ついていたかもしれません。しかし、時が経つのは早いもので、わたしも今年で四十八歳。ただの言葉に傷つくには、いささか歳を取り過ぎてしまいました。今更生き方を変えるのも難しそうですし、その必要も感じていません。そもそもその評判は、ほとんどが彼らの言う通りなのですから。そんな風に思えるようになったのは、何か悟りを得たというよりは、ただただツラの皮が厚くなっただけと言えるのかもしれません。そう考えると、歳を重ねるのもそんなに悪くないものですね。

 わたしが教師を目指したことに、これといった理由はありません。わたしが二十歳はたちそこそこだったあの頃、女が一生続けられる仕事に就こうと思った時に、目の前に広がる選択肢はそれほど多くはありませんでした。ただ、その中からあえて「教師」という職業を選んだ理由、あるいはそのきっかけのようなものなら思い出せます。



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『教室のゴルディロックスゾーン』
こざわたまこ


こざわたまこ
1986年福島県生まれ。専修大学文学部卒。2012年「僕の災い」で「女による女のためのR-18文学賞」読者賞を受賞。同作を収録した『負け逃げ』でデビュー。その他の著書に『仕事は2番』『君には、言えない』(文庫化にあたり『君に言えなかったこと』から改題)がある。

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