椹野道流の英国つれづれ 第16回
◆イギリスで、3組めの祖父母に出会う話 ♯16
小さくて四角い窓ガラスがたくさん嵌め込まれた、パブの黒い扉。
昔は、ガラスが高価で、大きいサイズのものなどとても買えなかったそうなので、格子状の枠を作り、そこに小さいガラスをズラリと嵌めるのが一般的だったのでしょう。
その扉の向こうには、うっすらと霧がかかっていました。
いえ、それは霧ではなく、煙草の煙でした。
今でこそ、イギリスのパブは全面禁煙となり、ガストロパブと呼ばれる、料理に力を入れた、むしろ家族向けのパブなども増えましたが、当時のパブは、喫煙者の楽園でした。
換気装置? ナニソレ? みたいな古い建物の中で、たくさんの人がスパスパと煙草を吸いまくるものですから、どうしても店内がけぶりがちになります。
当然、臭いも凄くて、パブに行くといつも、自分も持ち物もすべてが燻されたようになったものです。
その日も、店内にいる人の半分以上が喫煙者だったように記憶しています。
ジャックはパブの常連客、しかも人気者らしく、彼が姿を見せるなり、店のあちらこちらから声がかかりました。
ジャックは軽く手を上げ、快活にあちこちに挨拶してから、カウンター席に座りました。
たぶん、そこがジャックの指定席なのでしょう。私も促され、彼の隣に座ります。
ハイスツールなので、よっこらしょっとよじ登るような不格好な座り方になってしまいましたが、まあどうにかこうにか。
カウンターの向こうには、ちょっと真ん中が膨らんだ太い棒が、縦に何本もズラリと並んでいます。
ビールサーバーのハンドルです。
ハンドルにはビールの銘柄とマークが印刷されたボードが取り付けられていて、客はそこから好みのビールを選び、量を指定して注文するのです。
そのサーバーの前に、小柄な中年男性がひとり、立っていました。
「よう、ジョージ。景気はどうだい?」
ジャックに問われて、ジョージと呼ばれたその男性は、皮肉っぽい表情で肩をそびやかしてみせました。
「ま、俺が親父から店を継いで以来、素晴らしくよかったってことはないですね。いつもどおり、です。今日は、お友達はまだ来てませんよ、ジャック」
どうやら、彼がこのパブの主であるようです。
私が留学した頃のイギリスは、暗黒というといささか大袈裟でしょうが、不景気と緊縮財政で国じゅうが明らかにドンヨリしていた停滞期ともいうべき時代でした。
パブの経営も、決して楽ではなかったのだと思います。冗談めかしてはいましたが、ジョージの面長の顔には、顔を洗っても髭を綺麗に剃っても拭いきれない、どうにもできない疲れが染みついているように見えました。
「今日は二人とも来ないんじゃねえかな。奥さんのお供で忙しいらしいぜ」
ジャックのそんな軽口に、ジョージは愛想良く笑って言葉を返します。
「おやおや、そりゃ残念。あなたは暇でいてくださいよ、ジャック。かわいいオリエンタル・ビューティーとデートできる程度には。どうも、お嬢さん」
どうやら、「オリエンタル・ビューティー」というのは、私のことである模様。
驚きましたが、それ以上に驚いたのは、「お嬢さん」という呼びかけでした。
これを元の英語に戻すと、〝Love〟なのです。
愛? それがどうして、日本語に置き換えると「お嬢さん」に?
今のイギリスでもこの言い回しが使われているかどうか、私にはわかりません。言葉は常に移ろうものですから。
でも、私がいた頃、この〝Love〟という呼びかけを、いたるところで聞いたものでした。
兵庫県出身。1996年「人買奇談」で講談社の第3回ホワイトハート大賞エンタテインメント小説部門の佳作を受賞。1997年に発売された同作に始まる「奇談」シリーズ(講談社X文庫ホワイトハート)が人気となりロングシリーズに。一方で、法医学教室の監察医としての経験も生かし、「鬼籍通覧」シリーズ(講談社文庫)など監察医もののミステリも発表。ほかに「最後の晩ごはん」「ローウェル骨董店の事件簿」(角川文庫)、「時をかける眼鏡」(集英社オレンジ文庫)各シリーズなど著作多数。