こざわたまこ『教室のゴルディロックスゾーン』スピンオフ小説「ささやかな祈り」
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凝り固まった目元を指先でほぐしながら、職員室の天井を仰ぐと、外はすっかり暗くなっていました。時計はすでに、夕方の六時を回ろうとしています。そろそろ見回りの時間です。これまでにいくつもの学校に赴任を命じられてきたけれど、主のいなくなった校舎の雰囲気は、どこも似通っているように感じます。決められた順路に従って教室を回り、自分のクラスの前を通りかかったところで、ぱたん、ぱたん、と単語帳を捲る音が聞こえてきました。そっと中を覗くと、受験勉強に励んでいる一人の生徒が、わき目もふらず机に齧かじりついていました。
「こら、いつまで残っているの」
窓の外には、ちらちらと雪が舞い始めているようでした。道理で寒いはずです。
「あんまり根を詰めすぎるのも、よくないですよ」
「……はい。すみません」
決して咎めたつもりではなかったけれど、そういう風には伝わらなかったようです。しょんぼりと垂れたおさげ頭が、慌てたように帰り支度を始めます。急がなくていいですよ、と声をかけてはみたものの、耳に入っているのかいないのか。そういえばわたしも、かつてはこんな風に自分の髪をふたつに結わえていたっけ。と言っても、今から何十年も前のことですが。自分のくせ毛が嫌で嫌でたまらず、無理やり髪の毛を梳かしつけては、鏡とにらめっこしていたあの頃。今ではそんな悩みも、はるか遠い昔の話です。
教室から出ていく間際、おさげの彼女は思い出したように足を止め、こちらを振り返りました。
「先生、さようなら」
そう言って、ぺこりと頭を下げた彼女の顔が、ふいに、記憶の中の誰かの面影と重なります。数えきれない回数見送ってきた、もう二度と会うことはない子ども達。こういう時、わたしは何かに祈らずにはいられません。わたしのもとを去ったあの子が、今もどこかで元気に過ごしていますように。かつてクラスメイトだったあの子が、自分の爪を噛まずに、誰のこともひっかかずにいられる術を、見つけられていますように。
「……はい、さようなら。気をつけて」
どうか、どうか。気をつけて帰ってくださいね。そしてまた明日、ここで会いましょう。それでは、さようなら。
『教室のゴルディロックスゾーン』
こざわたまこ
こざわたまこ
1986年福島県生まれ。専修大学文学部卒。2012年「僕の災い」で「女による女のためのR-18文学賞」読者賞を受賞。同作を収録した『負け逃げ』でデビュー。その他の著書に『仕事は2番』『君には、言えない』(文庫化にあたり『君に言えなかったこと』から改題)がある。