こざわたまこ『教室のゴルディロックスゾーン』最初の1篇(+α)まるごとためし読み!
『さきちゃん』
あたしのことをちゃん付けで呼ぶ、世界でたった一人の声。あの子の濡れた視線が、頭から離れない。
『……そう、トトに会いに来て欲しくて。トト、さきちゃんのこと──』
久しぶりに会った依子は、相も変わらずそんな話をしていた。依子のお喋りの話題は、小学生の頃からほとんど変わり映えしない。飼っている犬の話か、自分の妄想の話。出会ったばかりの頃と同じだ。あの子の中で、時計の針が止まっているみたいに。
『あの子、一年の時さきと同じクラスじゃなかったっけ? 友達?』
依子と別れてすぐ、琴ちゃんにそんなことを聞かれた。あたしは咄嗟にこう答えていた。
『ううん、ただのクラスメイト』
あたしはみんなに、依子のことをそう説明した。友達でも、親友でもなく。
「……さき? 大丈夫?」
あたしが急に黙り込んでしまったせいだ。おのちんがそう言って、心配そうにこちらに身を乗り出した。その拍子に、おのちんのトートバッグがずるりとすべり落ちた。バサバサッと大きな音を立てて、中身が外に出てしまう。ペンケースの中身は、ほとんど床に散らばってしまった。
「うわ、ごめん。やっちゃった」
「あ、いいよ。拾う拾う」
何してんの、と笑いながら、正直ほっとしていた。これ以上おのちんの前で、依子の話を続けたくなかった。
おのちんの私物をひとつひとつ拾い上げていくうちに、違和感を覚えた。床の隅に目を凝らすと、蛍光ペンや教科書、転がったリップクリームに続いて、きらりと光る何かがあった。金色よりももう少しピンクがかった、細身のチェーンのようなもの。ネックレスだ。輪の真ん中には、きらきらとした星がいくつか輝いている。幾何学模様にも似た、これは。
──ねえ、ここにネックレス落ちてなかった? 色はピンクっぽいゴールドで、星座のモチーフがついてるんだけど。
あ、と思った次の瞬間、ネックレスはひったくるように奪い取られた。
「これって」
おのちん、だった。顔を上げた先で、おのちんは強張った笑みを頬に貼り付けたまま、あたしを見つめていた。その手にぶらさがったネックレスが、窓から降り注ぐ朝日を一身に受けて、場違いにきらきらと輝いている。
「違うの」
開口一番、おのちんはきっぱりとそう口にした。
「違うって、何。それ、濱中さんのだよね。昨日着替えの時に探してたやつ。なんでおのちんが持ってるの」
言いながら、あの時おのちんがあたしと琴ちゃんよりも先に健康診断から戻ってきていたことを思い出した。なんで、の答えは、もう出ている。でも、それを認めたくなかった。おのちんはあの時濱中さんに、ネックレスなんて知らない、と言った。あたしを守ってくれたんだと思っていた。
「……私、知らない」
「じゃあ、ここにあるのはなんで」
「知らないって言ったじゃん」
おのちんは、壊れたロボットみたいに同じ答えを繰り返すだけだ。
「じゃあ、こっちは?」
そう言って、ずっと右手に握っていたものを差し出した。それに気づいた瞬間、おのちんの顔に初めて動揺が走るのがわかった。
「このリップクリーム。これ、琴ちゃんのでしょ? そうだよね。教室で使ってるの、見たことあるよ」
それは、十代から二十代の女の子に人気の化粧品ブランドのもので、本体を買うと一緒についてくるケースには、一目見ればここのものとわかる猫のマスコットキャラが描かれている。値段だけで言えば、ドラッグストアなんかで売っているコスメよりも一桁多くて、この辺りじゃそうそう見かけることもない。少なくとも、このクラスで琴ちゃん以外にこのリップクリームを使っている人を、あたしは見たことがなかった。
そもそも、琴ちゃん憧れのミカミさんがインタビューで理想の女の子について聞かれて、ここのブランドのコスメを持っている子、と答えたのがきっかけだった。中学生が手にするには少しばかり高価なそれを、リップだけならお小遣いを貯めれば買えるから、とうれしそうに見せてくれたことがある。
「最低じゃん」
おのちんが、はっとしたように顔を上げる。
「友達のもの盗むなんて、ありえない。琴ちゃん、幼馴染なんでしょ? 最低だよ」
「……それは、ほんとに違う」
おのちんが、絞り出すようにそう口にした。
「それは、って何? じゃあやっぱり、ネックレスは」
何か言いかけたおのちんが、その手前で言葉を飲み込み、さきだって、とつぶやいた。
「さきだって、一緒じゃん」
「え?」
何を言われているのか、わからない。
「私、ほんとは知ってるよ。この前廊下で声かけてきた子。あれ、さきが小学校の時からつるんでた子でしょ」
「は? 今、そんな話」
「すごい冷たくあしらってたよね。なんであの時、友達じゃないふりしたの」
「なんでって……」
「そんなんだから、いじめられるんじゃないの?」
思いがけない言葉に、頭が真っ白になった。
「吹部に、さきと同じ小学校だった子がいるの」
呼吸がうまくできない。咄嗟に胸を押さえたあたしを、おのちんは哀れむような目で見つめていた。
「その子が言ってた。緒川さきは、嘘吐きだって。そのせいで、クラスでいじめられてたって。すぐどうでもいい嘘吐いて友達を裏切るから、信用できないって」
「……ちょっと、待って」
「さきも同類じゃん。最低じゃん。私に何か言う資格なんてないよ」
さきも、というその言葉は、自分の罪状を認めたも同然だった。なのに、このふてぶてしさはなんだ。さっきから、自分のしたことを悪びれようともしない。
その時、ガラガラ、と教室の入り口から戸の開く音がした。
「おはよー。あれ、どうしたの? 二人とも早いね」
「琴ちゃん……」
それに気づいた瞬間、あたしは咄嗟に、持っていたリップクリームをおのちんのトートバッグに投げ入れた。おのちんを隠すように、ずいと前に出る。それを見たおのちんが、はっとした顔で、ネックレスを持っていた方の手を後ろに隠した。そのままごそごそと、スカートのポケットに拳を捻じ込んでいる。
「なんか今日、異様に早く目覚めちゃって。……え。何かあった?」
「あ、いや。えっと、おのちんがバッグの中身、ぶちまけちゃって」
「え、ほんと? 手伝おうか?」
「大丈夫、大丈夫。ほとんど拾い終えたから。ね、おのちん」
そう言って笑いかけると、おのちんは、ぎくしゃくとあたしを見返した。おのちんに、アイコンタクトを送る。
「……うん。さき、ありがとね」
やがて、教室にはクラスメイト達が続々と登校してきた。あたし達はいつも通り、ホームルームの時間が始まるまでの時間を一緒に過ごした。いつもと同じように、月ランの話題であーだこーだ言い合いながら。そうこうしているうちに、一限目の授業が始まった。このまま、何事もなかったかのように一日が過ぎていくんだろうか。そう思っていたら、後ろの席からノートの切れ端を折り畳んだ小さな手紙が回ってきた。差出人は、おのちん。書き出しは、ごめんなさい。
『さっきは、変なこと言ってごめんなさい』
『信じてくれないと思うけど、盗るつもりなんてなかった。これは本当です』
『お願いだから、琴子にだけは言わないで。お願いします。なんでもするから』
琴子にだけは、言わないで。見慣れたまるっこいその字は、この一文だけ、何かに怯えて震えているみたいに見えた。
(続きは書籍でお楽しみください……!)
『教室のゴルディロックスゾーン』
こざわたまこ
こざわたまこ
1986年福島県生まれ。専修大学文学部卒。2012年「僕の災い」で「女による女のためのR-18文学賞」読者賞を受賞。同作を収録した『負け逃げ』でデビュー。その他の著書に『仕事は2番』『君には、言えない』(文庫化にあたり『君に言えなかったこと』から改題)がある。