小原 晩「はだかのせなかにほっぺたつけて」第14話
第14話
喫茶店
喫茶店の大きな窓から街を眺める。駅前、二階の喫茶店である。
もうすぐ日が暮れそうな街を見下ろしながら、私は今、アイスコーヒーを飲んでいる。
ああ、あそこのあたりから君がぷらぷら歩いてきたらいいのにな。そうしたら、私は迷いながらも電話をかけて、それで君は電話に気づいて、立ち止まり、光る液晶にうつる私の名前を見て、ほんの少し首を傾け、それから何事もなかったかのように上着のポケットに携帯電話をしまうだろう。その様子を私はすべて、この二階の喫茶店から眺める。それから、今度はメッセージを送る。「阿佐ヶ谷にいるでしょう。」そのメッセージをあなたはすぐに見る。みると、右に左に前に後ろに、頭をふりふり、体をくねくね、私を探す。私は、あなたを見下ろしている。「どこですか。こわい。」あなたはそんなふうに言うとして、私はどう返そう。「上のほうです。」あなたは顔を上のほうに向けて、ぐるぐると周りをみる。そうしてやっと、ふたりの目が合う。私は、小さくあなたに手を振る。きっと照れたような顔になっているだろう。耳なんて真っ赤になっているかもしれない。連絡したことを後悔しはじめているかもしれない。
あなたはその階段を上ってここまで来てくれるだろうか。誰かとの約束まで少し時間があるとかなんとか言って、目の前の席にその腰を掛けてくれるだろうか。そうしたら、あの禿げたおじさんは私たちの席へ来て、水をだし、するとあなたは「僕もアイスコーヒーをお願いします」と言うのだろうか。そうだといいな。
私もちょうどアイスコーヒーを飲みきったところなので、もう一杯頼もう。とおじさんをみると、常連であろうお客さんと楽しくおしゃべりしている最中なので少し待つ。十五分ほど待って、未だおしゃべりに花が咲いていたので、お手洗いに立つついでに注文をして、席に帰ってくるとすぐに届いた。
「お仕事してたんですか」とあなたは聞いてくれるだろう。「はい」と答えてそれから何を話そうか。私はあなたとコーヒーを飲みながら、どんなことを話したいだろう。仕事の話をしても、天気の話をしても、最近のニュースの話をしても、どんな話をしても楽しいだろう。でもわからない。私はあなたとどんなことを話したいのか、いくら考えてもわからない。話題からなにから、いつもあなたに委ねているからだろう。そうするしかないような気もしているし、なにかを諦めているような気もする。せめて私は浮かれたことを言わないように、必死に普通の顔をつくるけれど、浮かれていることはきっとばれているだろう。恋愛に対等はない。と言い切れるほど私は全ての恋愛を知らないけれど、上下のある恋愛というものをするとき、上にいる人間は、下にいる人間の行動や言葉の理由がわかる、もしくはそれらを全く無視することができる。かなしいかな、下にいる人間は上にいる人間の行動や言葉の理由を正しく推察することはできない。恋はまやかし、好きなひととは、人間にあらず。恋の暴力性とはここに潜んでいるのだろう。相手は人間なのである。だから、勝手にこちらで浮かれて、暴走してはいけないのだ。人間同士で、おしゃべりをしてコーヒーを飲むのだ。という考え自体、相手を異常に意識しすぎている。恋とは異常事態であるね。やっぱり私に恋は向いていない。恋をしたって、こうして内に内にと気持ちが向いてくるのだもの。あなたのことをもっと知りたいかと言われれば、あなたが教えたいと思う範囲のことだけでいい。隠し事は隠しておいてもらって構わない。あなたにもっと近づきたいかと言われれば、あなたの無理のない範囲で近くにいられたらそれは嬉しいけれど、まあきっと叶わないといった塩梅である。私の恋にゆくえなどない。ゆくえのないまま、彷徨っていても、あなたは許してくれるだろうか。あの日からずっと私の胸のなかで、なにかが爆発を繰り返している。その爆発を私はうれしく眺めている。悲しさもさびしさも輝いてたまらないのだ。あなたのくれた悲しさだもの。私はあなたのことを信じている。信じる、とはいくら裏切られたって傷つけられたって構わないという意思だ。傷つけることのできるほど、あなたは私の近くまできてくれるだろうか。
街はすっかり日が暮れて、二杯目のアイスコーヒーを飲み終わる。透明のあなたは約束の相手の元へ行く。私は歩いて家に帰ろう。
小原 晩(おばら・ばん)
1996年、東京生まれ。2022年、自費出版にて『ここで唐揚げ弁当を食べないでください』を刊行。独立系書店を中心に話題を呼び、青山ブックセンター本店では、2022年文芸年間ランキング1位を獲得した。その他著書に、初の商業出版作品として23年9月に『これが生活なのかしらん』を大和書房から刊行。