「推してけ! 推してけ!」第50回 ◆『恋とか愛とかやさしさなら』(一穂ミチ・著)

「推してけ! 推してけ!」第50回 ◆『恋とか愛とかやさしさなら』(一穂ミチ・著)

評者=渡辺祐真/スケザネ 
(書評家)

もし婚約者が盗撮をしたら?


 主人公の関口新夏は30歳の女性、職業はカメラマン。5年間付き合っている彼氏の神尾啓久から、昨夜プロポーズをされた。幸せの絶頂だ。彼との未来を思い描きながらまどろんでいると、突然電話が鳴る。電話の主は彼氏の母親。

 息子が盗撮で捕まった……。

 母親は沈んだ声でそう告げる。駅で女子高生のスカートの中をスマホで撮影したのだという。実際に証拠もあり、本人も認めているらしい。何かの間違いではないかと落ち着かないまま続報を待っていると、午後に再び彼の母から電話がかかってきた。結局、示談で済みそうで、会社にも知られなかったため、大事に至らなかったとのこと。

「とりあえずはそういうことで、安心してね」とこともなげに言い残すと、電話は切れた。

 ……、安心してね? 確かに彼には前科はつかなかった。社会的に大事にもなっていない。だが、彼は性暴力を行なった。紛れもない加害者だ。

 そんな彼との交際を続けるべきか別れるべきか。許すべきか許さないべきか、そもそも許す許さないという次元なのか。彼女は深い悩みと葛藤に陥ることとなる……。

 こうして、一穂ミチ『恋とか愛とかやさしさなら』は幕を開ける。息もつかせぬ冒頭が過ぎると、それ以降は彼の性加害をめぐる議論や、関係者それぞれの立場からの慎重な意見表明ややり取りが描かれていく。当事者、母親、父親、姉、同僚などの関係性によって、更に性加害に対する姿勢によって、その態度は十人十色だ。

 最も苛烈な批判者は、彼の姉である真帆子。彼女は性暴力に対する強い忌避感と怒りを持っており、SNSでもそうした事件についての発信を積極的に行なっている。弟の一件を知ると、彼のスマホやパソコンのデータを全てあらため、自身の娘の写真を写真フォルダから全て消させ、実家のアルバムからも剝がし、そして新夏には別れることを強く勧めた。

 中でも、啓久を庇い続ける両親に対して言い放った次の言葉は、彼女の強い怒りが色濃く表明されている。

「お父さんもお母さんもどうかしてる。啓久のやったことは性加害だよ。犯罪なの。逮捕されなかったからって、幼稚園児がスカートめくりして先生に怒られた程度に考えてる? そのスカートめくりで心に傷を負う女の子だっているんだよ。啓久に盗撮された子はショックでスカート穿けなくなるかもしれないし、電車に乗れなくなるかもしれない」

 
 徹底的に非難し、一切の情状酌量を認めないのが真帆子であるならば、その対極に位置するのは、新夏の高校からの友人であり、啓久の会社の同僚でもある葵。彼女は二人を結びつけたキューピッドでもある。

 葵は盗撮を犯罪だと認めながらも、「もったいないよ。今まで仲よくやってきたのに、こんなことで壊れるのは」と言い、別れることを思い留まるように促す。二人を引き合わせた引け目からか、双方と親しい仲だからか、あるいは、彼女が結婚を損得勘定というドライな物差しで捉えているからか、葵の説得は熱心だ。

 しかし新夏は真帆子にも葵にも完全に同意することはできず、自分の立場をなかなか決められない。何事もなかったかのように許すわけにもいかず、だが生理的に無理だと突き放すこともできない。

 そこで逡巡しながら、当の啓久にもうしないのかと尋ねると、彼は苛立ちながらこう話す。

「人を殺したわけじゃない、物を盗んだわけじゃない。一回の出来心でニカ(※評者註=新夏のこと)との間にひびが入って、母親は泣いて、父親は不機嫌になって、姉は怒り狂って、姪にも会えなくなった。リスクが大きすぎるって痛感した」

 
 彼は落ち込んで深く反省はしているものの、それはあくまでペナルティによるものであるため、肝心の点で嚙み合わない。

 新夏はそういうことではないと思いながらも、盗撮という罪をどう断じればいいか、なかなかはっきりさせられない。

 彼女の葛藤を複雑にしているのは、新夏の職業がカメラマンであること。元報道カメラマンで現在は写真館を営む父親や、その元同僚のカメラマンの手伝いをしながら、新夏は自分なりの写真を模索している。

 だが彼女は、被写体を自分なりの価値観や構図で切り取り、「一つの現実」として提示する撮影という仕事に自信が持てない。自らの表現欲求や報道精神のもと、被写体を撮影することは正しいのか。

 頭では全く違うものだと分かりながら、啓久の犯した犯罪とどう線引きがなされるのかが釈然としない。そうした思いが物語終盤に彼女をある行動に駆り立てるのだが、それはぜひ実際に読んでほしい。

 その行動がどういうものかは深くは書かないが、そこにひそむ問題を一つ指摘しておく。西洋思想では「まなざし」が持つ暴力性や権威性が論じられつづけている。まなざしとはときに権力であり、ときに暴力になる。例えば上司や権力機構がじっと見ることを監視と呼ぶが、これは典型的な権力のまなざしだし、電車の中や町中で女性が男性からじろじろと眺められるのはあからさまな暴力のまなざしである。だが、視線自体が犯罪として立証されることは稀だ。あくまでも撮影という行為が付随すること(撮影に転換されること)で犯罪にはなるが、視線だけでは犯罪にはならない。

 この物語では、視線の持つ暴力性が至るところで描かれる。その比喩がカメラであり、反転形が終盤に描かれる新夏の行動だ。

 等価とはいかないが、男性としてその羞恥心や恐怖の一端を実感させられた。

 本書には「恋とか愛とかやさしさより」という後編も収録されている。これは「恋とか愛とかやさしさなら」のその後を描いている。視点は啓久に変わるのだが、前編の問題を意外な角度で掘り下げる。

 性暴力や性的な搾取を受ける女性が、次々と自傷的な連鎖に陥ってしまうという点を描いたのは、この問題の根深さを掘り下げており、女性が置かれている地獄のある側面が突きつけられる。

 特に中盤に発せられる「被害妄想だったとして、あたしの思考回路をそういうふうにしたのはこれまで心を折ってきた男だから。」という言葉は、本作の構造だからこそ語られたものだと思う。(ただし、このような関係性の対話は肯定すべきではない。)

 盗撮という性暴力(時に暴力と認識されない場合もあるが、れっきとした暴力だ)がもたらす議論を、これだけ多角的かつ緊迫感あふれる展開で描いた作品は稀有だ。

 自分が啓久だったらどうするか、パートナーや近しい人間だったらどうするか、真剣な問いや議論を生む読書体験になることは間違いない。

 

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恋とか愛とかやさしさなら

『恋とか愛とかやさしさなら』
著/一穂ミチ


渡辺祐真/スケザネ(わたなべ・すけざね)
1992年生まれ。東京都出身。書評家、文筆家、書評系 YouTuber、ゲーム作家。TBSラジオ「こねくと」レギュラー、TBS podcast「宮田愛萌と渡辺祐真のぶくぶくラジオ」パーソナリティ。著書に『物語のカギ』(笠間書院)。ほか、共著、編著など多数。

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