乗代雄介〈風はどこから〉第19回
第19回
「出会いと別れを経験しよう」
9月下旬、土曜午前のJR平塚駅はそれなりの人出だ。北口へ出ようと歩き、エスカレーターを下っていく間に、明るい緑と青のフラッグやバナーがいくつも目に入る。神奈川県平塚市は湘南ベルマーレのホームタウンの一つで、駅から徒歩30分ほどの平塚市総合公園には、レモンガススタジアム平塚というホームスタジアムがある。
明日に行われるセレッソ大阪との試合を観に行く予定もあるのだが、その前日である今日も総合公園に向かって歩き始める。何度も足を運んだことがあるので慣れたものだ。ロータリーから北へのびるフェスタロードが国道1号線に交わるところが宮の前交差点、そこに交差して架かっている歩道橋を渡って平塚八幡宮に寄り、お参りするのがいつものコースである。境内、池の近くにはカモやアヒルがのんびりしている。神馬も神厩舎で草を食み、狛犬も二つの鳥居ごとに置かれ、動物好きにはうれしい神社だ。
開運八社詣をやっているとのことで、社務所で用紙をいただく。境内にある八社それぞれの御朱印を押して回ると記念品がもらえるそうで、なるほど、拝殿のそばを筆頭に各所にスタンプが設置されている。砂利を踏みながらみんな集めて、無事にポストカードをいただいた。御朱印で埋まった用紙も、部屋の棚の上に飾っている。
すぐ横を歩いても寝そべったままのアヒルたちに別れを告げ、裏に回って八幡山公園を通り、県道606号に出る。大工場に挟まれた細く長い通りを北へ進むうち、湘南ベルマーレの選手たちの幟旗が並び始め、やがて左手に高い木立が見えれば、そこが平塚市総合公園だ。
ここへ来たのは、ふれあい動物園にいる動物たちに会うためだった。明日の試合前は来られそうにないので、ぜひ見ておきたかった。動物たちも休日の親子連れも、みな元気そうで何よりである。ホオミドリウロコインコが嘴と趾を使ってフェンスを縦横に移動するのをじっくり眺めたあと、通りに戻ってバスに乗る。イヤホンから倉橋ヨエコ「盗られ系」が流れた。2008年の『解体ピアノ』で「すべてを出し切ることができた」と活動休止していたけれど、昨年からヨエコの名で活動を再開している。思い直すにしても、そう思える気分というのはどんなものだろう。
平塚駅に戻ったら、空席の多い東海道線に乗って隣の大磯駅へ。江戸時代は東海道の宿場町として栄えた町だ。当然、歌川広重の『東海道五十三次』に「大磯」があり、軒の連なる街道の左に松林と海、右に山が描かれている。駅のホームから同じ向きで左右を見比べても、そんな景色が確認できる。海側にある駅の出入口から線路沿いの道を下り方面へ進み、トンネルをくぐって線路の反対側へ出てみると、やはり山林へ向かう上り坂だ。上ることはせず、線路沿いの狭い道をさらに下り方面へ進むと、再び線路をくぐる地下道があった。
通学路にもなっているこの道は〈ゆめのちかみち〉と名付けられているようだ。スロープを下がっていくと、子供たちの描いた明るい色の壁画が並び、階段も七色に塗り分けられている。土地柄、海の生き物を描いたものが多く、青い床の色も手伝ってにぎやかな海の中を進むような感じでいい。
海側に出て、付近の道の中から一番狭い路地へ入って行くと、やがて雰囲気のある竹塀に突き当たる。松がのしかかるような冠木門の奥に、木造平屋建ての屋根が見える。ここは、島崎藤村が晩年の2年半を過ごした家である。姪との関係を告白しそれを清算しようともした『新生』を書いた10年後に結婚した静子夫人と共に、ここで静かに暮らしていたが、1943年の8月22日、脳溢血で亡くなった。最期の言葉は「涼しい風だね……」だったという。
現在、この旧邸宅は大磯町の指定有形文化財として保存、公開され、小庭から見学することができる。藤村にとっては「生涯で最も気に入った書斎がある家」で、小庭を臨むその四畳半間には、夫人の書いた「明月」の扁額が掛かっていた。何とも言えない良さのある素朴な字で、これを愛おしんだ藤村の気持ちがよくわかる気がした。この日はまだそれが必要な暑さだったけれど、配布されている団扇には、最期の言葉が書かれていた。
旧藤村邸を出て海に向かおうと、住宅街を抜けて東海道を渡り、低い石垣や生け垣の間を縫っていく。マップを見ると、紀伊徳川茂承侯爵の別邸跡の石垣らしい。大磯には、政財界の要人がこぞって別荘を建てた。私の歩いたところから少し西へ行くと、伊藤博文、山縣有朋、西園寺公望、大隈重信、陸奥宗光など、錚々たる面々の邸宅や跡地を保存する〈明治記念大磯邸園〉がある。これらの整備は、2017年に閣議決定された。
西湘バイパスを見下ろす歩道に出ると、その奥に一面の海だ。雲が多い空のためか鈍い色をしているが、その広さと波音に心が洗われる。東へ歩くと、歩道はやがてバイパスの下にもぐった。そこは陸の方へのびる小径がコンクリートの巻き階段でつながる分かれ道になっていたけれど、なかなかどうして興味をそそる場所だった。階段を上がったところにハマユウやサボテンソウが陣取って、重たい実や多肉質の葉を垂れ下げている。コンクリートの隙間には誰かが集めたカラスの羽根が数本挿さっていたり、全員が黒のスウェットを着た母・娘・息子の若い家族と思しき三人のプリクラがどういうわけかしっかり固定されたりしていた。
すぐそこのバイパス下はもう砂浜で、こちらも妙だが、大小のストーンサークルがそこら中にあった。不審に思いつつバイパスを全てくぐって海へ出ると、テトラポッドに落書きされた宇宙人に出くわし、なんとなく納得はした。ゆらゆら帝国の「宇宙人の引越し」なんかを聴いてみながら、東へ向かうほどに礫の増える浜を歩いて行く。足がだんだん、窮屈に沈み込むようになる。
照ヶ崎海岸と呼ばれる一帯には、磯遊びのできる岩場が広がっている。暖かい時期にはアオバトが海水を飲みに集団飛来することでも知られる場所で、私もまたその姿が見られればとここを目指して来たのだった。上空、ハトらしき群れが飛んでいるが、影になって色がわからないまま陸の方へ行ってしまった。視界に残る空では、うねり、立ち、たなびき、たまり、ちぎれ、浮かび、というあらゆる雲が遠く近くに広がっている。トビが一羽、そこをゆっくりと旋回して、遠い電線の上にドバトが何羽もとまっていて、やはりさっきのはアオバトではなかったのかと思う。
大磯港のカフェで遅めのお昼を食べ、大磯海水浴場をまた東へ歩いて行く。ちなみに大磯は海水浴場発祥の地でもあるらしく、碑も立っている。波打ち際ではしゃぐ多くの人たちの奥に、波を待つサーファーたちが水鳥のように群れて見える。歩くほどに人が減っていくと、今度は鳥が増えてくる。ミユビシギが波に追われるように渚線を走り、波が引いたところを一目散に戻って餌取りする様はいつ見ても愉快だ。カラスは近づくと、ひらりと流木を離れて飛んでいった。
このまま海沿いを平塚まで戻ろうと、浜から道路に上がって花水川橋を渡る。また海岸へ出る道にキジ白の猫がいた。足音に気付いてこちらを向くと、去勢手術済を示すさくら耳がはっきり見えた。その奥には人が用意した猫の家が並んでいる。地域猫として世話をされているのだろう、血色も毛並も良さそうだ。近づこうとすると距離を取られたので、触れ合いをあきらめて進む。と、草むらからまたニャーニャー声がして、今度は三毛猫が出てきた。
この子は人なつこくて、ぐんぐん頭を当ててくれ、ひとしきり撫でさせてくれる。その割に耳がカットされていないのは不思議ではあったけれど、こちらとしては一期一会の無責任さでただかわいがるだけである。だから、満足すると感謝を告げて歩き出す。
しかしこの三毛猫、驚いたことに、時々ニャーニャー鳴きながら、ぴったりとついて来るのだった。もちろん猫について来られたら悪い気はしない。しばらく一緒に砂浜を歩いて行った。こちらが止まれば止まり、寝転がって撫でろと誘い、こちらが歩けばついてくる。時折、虫を見つけて構えたりする。飛砂防止の竹垣の上を歩く芸当も見せてくれて感動したが、これはあとで、単に草の上を歩きたくないからだと判明した。
そんな具合で延々ついて来て延々撫でさせてくれるのを喜んでいたが、あまりにもついて来るので不安になってきた。猫の行動範囲はかなり広いとは言うけれど、こちらがスピードを上げても早足にもならずただ黙々と歩み寄って来るだけなので、この調子であそこまで戻るとしたら大変だろうと思う。おせっかいかも知れないが、心を鬼にしてお別れしよう。
振り返らずに歩いて距離が開けば諦めるだろう。そう思ってずんずん進むと、後ろからニャーと呼ぶ声がする。止めてしまった歩を再び進めるとまたニャー。さらにニャー。
どうしたらいいのだろうか。ここは落ち着いて猫を撫でながら考えよう。引き返してまたよしよしやっているうちに、これはいけないと思い直す。再び歩き出し、さっきより離れて振り返ると、微かに声が聞こえる。戻る。撫でる。いけないと思う。これを何度か繰り返し、ようやく私は三毛猫と別れた。最後に見たのは、西日を後ろに浴びて、歩きもせずにちょこんと座ってこちらを見ている姿だったが、写真には写らなかった。
ほっとしたような悪いことをしたような複雑な気持ちで、砂に足を取られながら浜を歩く。カヒミ・カリィ「Cat from the Future」を聴く。「猫は過去を訪れることのできる幽霊」という歌詞が気にかかる。旅歩きの中で出会った多くの猫たちを思い出す。
このあたりは虹ヶ浜と呼ぶらしい。さらに歩き、ビーチセンターに近づいて、少しずつ人影が増えてきた。風は涼しいどころか肌寒いぐらいだった。ここから北にまっすぐ行けば、平塚駅に着く。そう思いながら、高浜台歩道橋の上から流れる車を見ていた。
写真/著者本人
乗代雄介(のりしろ・ゆうすけ)
1986年北海道生まれ。2015年「十七八より」で第58回群像新人文学賞を受賞しデビュー。18年『本物の読書家』で第40回野間文芸新人賞を受賞。21年『旅する練習』で第34回三島由紀夫賞を受賞。23年『それは誠』で第40回織田作之助賞を受賞し、同作の成果により24年に第74回芸術選奨文部科学大臣賞を受賞。ほか著書に『最高の任務』『ミック・エイヴォリーのアンダーパンツ』『パパイヤ・ママイヤ』などがある。