乗代雄介〈風はどこから〉第17回
第17回
「良寛さんの故郷に行こう」
JR長岡駅から西へのびる大手通りのアーケードが途切れてもなお進むと、信濃川にさしかかる。大手大橋から上流を眺めると目にかかる河川敷は、名高い長岡花火の会場とのことだ。関係あるのかはわからないが、ひときわ丁寧に舗装された台形の範囲が三角コーンとポールでさらに縁取られている。
新潟県長岡市の長岡まつりは8月1~3日の開催で、花火大会は2・3日に行われる。とりあえずこの日は6月上旬で、まだ梅雨入り前だが雲が多かった。
対岸には、堤防に接するように市営陸上競技場がある。2日前にここを歩いた時には、陸上競技会があったようで、陸上ユニフォーム姿の学生たちが、河川敷でウォームアップをしたりトンネルの日陰にたまったりしていた。今日はがらんとしたもので、私もさっさと通り過ぎる。
1キロほど歩いて国道8号線に当たったところで左折すると、ながおか花火館という道の駅がある。花火ミュージアムもあって興味深いけれど、朝早いのでまだやっていない。関越自動車道をくぐり抜けて目指すのはまだまだ先の日本海なのだが、時間には余裕を持っているので、さっそく馬高遺跡に足をのばした。まぶしい芝生にいくつかの竪穴住居が再現されている後ろの木立に入ったところに、〈伝「火焰土器」出土地点〉という標識が立っている。
岡本太郎が驚き感動したことで知られる燃えさかるような造形をした縄文土器は「火焰型土器」と呼ばれる。その一番最初の土器が大体このあたりで見つかり、これを指して「火焰土器」と呼ぶということだ。火焰型土器は信濃川流域を中心にかなりの数が出土したが、「火焰土器」はそれ一つしかないのである。
火ということで、Negative Space の「Light My Fire」を聴く。言わずと知れた The Doors の名曲だが、こっちばかり聴いてしまう。『Filling The Gap』というレア・トラックを集めたコンピレーションが2011年に再発売されて知ったのだが、70年にアルバム1枚出しただけのニュージャージー州のバンドらしい。
ファズ・ギターが響く中、月曜休みの小さな博物館を覗きこんで国道8号に戻る。オオキンケイギクが旺盛に咲く中を歩いていると、「木喰三十三観音」と書かれた看板を発見。木喰は江戸後期に甲斐(山梨)で生まれた僧で、全国を廻って木彫りの仏像を残した。見つかっている約620体の半分くらいは新潟にあるそうだ。三十三観音は黒川沿いにある寶生寺に堂をつくって納められているが、予約推奨とのことで見ることはできなかった。北陸自動車道をくぐるあたりは田圃が広がり、田植えを終えたばかりの水面が雲の陰翳をくっきり映している。推定樹齢400年という香林寺のしだれ桜は、幹にできた空洞に観音菩薩が安置されていた。
歩道を求めて県道444号へ出る。長岡雲出工業団地の標識が出ている方を覗くと、広い敷地の間を通る広い道に、まだ頼りない街路樹が何となく並木っぽく植わっていた。北東に進むと県道444号が急に左へ折れて、低い丘陵へ向かう道になった。上り始めてすぐの牧場で牛を眺め、さらに上ってゴミ処理場を見下ろす。土手状に積まれて埋め立てを待つ色とりどりのゴミが淡い輝きを放っている。
両脇のガードケーブルから緑がせり出す道は舗装されて歩きやすいが、車が来る気配はほとんどない。黄色い花を房状につけたキオンが目に鮮やかで、青いガクアジアイもちらほら種々の葉の上に浮かび、クワやクサイチゴの実も黒く赤く輝いている。クサイチゴは摘んで水で洗って食べながら歩いた。これまで書かなかったが、私はこういう道の間違いなく食べられるものはばんばん食べる。
すぐに下りになった先、細い谷では田圃が列を作っている。小川から水を引くあたりは護岸工事中らしい。仮設プレハブ小屋の開け放たれたドアから中が見え、昼休憩の作業員の方々が三人、思い思いに寝転んでスマートフォンをいじっていた。工事は7月26日まで続くそうだが、ちゃんとエアコンは設えてある。
その小川を辿るようにしばらく歩くと集落があった。蓮花寺という地名らしい。お寺があるのかと思って目を向けた石段の下は、山門ではなく鳥居だ。七社宮の名を確認しつつ上っていくと、柵で守られた立派なスギが一本立っていた。まっすぐ伸びながら樹皮はうねるように裂け、龍が上っていくような躍動感がある。立て札によれば樹高は約50メートル、目通りの幹囲は約8.8メートル、神社創建時に植えられたという推定樹齢は1300年。たまたま流れてきた坂本龍一「ISLAND OF WOODS」を終わりまで聴きつつ、誰もいない境内で小休止。木々に囲まれながらシンセサイザーで模された森の音を聴くなかなか凝った時間だったが、最後に流れる波の音がこの旅の終わりを予感させて満足した。
ここから西へ、また丘陵を越える。高いところで350メートルほどだから楽なものだ。扇城台や小木ノ城跡など、ちょくちょく見晴らしのいいところに寄りながら歩くうち、もう峠を越えている。小木ノ城跡からは、水平線と低い雲に挟まれて窮屈そうな佐渡島も見えた。いつの間にか空は青く澄み渡り、気温も20度前後で最高である。
林道常楽寺線に入って1キロほど歩くと、田園風景が広がってくる。五分、十分後に自分の歩く道が木立の際に弧を描いて遥かに続く、こういうところを歩いている時の幸福感は何物にも代えがたい。少し育った苗が、水面に映した空や低い稜線を点描画のように見せていた。
JR越後線の小木ノ城駅を見下ろす高架を渡り、島崎川沿いの県道574号を出雲崎駅方面に歩いて行く。国道352号にあたる頃には、町のあちこちで「良寛」の語が目につくようになる。今も親しまれる曹洞宗の僧は、1758年にこの地で生まれた。橘屋という名主の家の長男だったが、見習い時代に民の苦しみや諍いや罪人の処刑を目にしたこともあり、18歳で出家。22歳から現在の岡山県倉敷市にある円通寺で仏道修行に10年以上励んだあと、各地の名僧を訪ねて諸国を巡り、35歳頃に越後へ帰ってきてからは寺を構えず庵を転々としながら、人々の中で74歳まで生きた。清貧を貫き、子供と遊んだ逸話も多く残る。
案内広場のような場所に「還郷作」の詩碑があった。題の通り、故郷に帰った時の詩である。家を出て国を離れ修行の末に帰ってきたら、両親を含めた旧知の人の多くがもう墓の下の人となっていたという内容でせつない。
良寛もよく通った古道を歩きたかったが、行っておきたい良寛記念館の閉館時間も迫っているので、最短距離の国道を選ぶ。良寛の妹が嫁いだ寺を過ぎて、最終入館時間前の16時20分に着いた。受付のある建物で券を買い、別の扉からまた外へ出て展示館に進む方式だ。海岸段丘崖の上にあって景色がいいのだが、ひとまず展示を見る。誰もいない展示館は細長い一室からなり、「出雲崎ゆかりの文人展」が開催中だった。良寛の書簡などを中心に興味深いものにはメモを取りながら、閉館10分前に展示館を出る。
夏至もそろそろの太陽はまだ高く、小木ノ城跡で遠く見た日本海と佐渡島が今は眼下に青々と輝く。良寛の歌に「古へにかはらぬものは荒磯海と向かひに見ゆる佐渡の島なり」とあるが、詠まれて二百年近くが経ったところでその感興は変わらないのだった。展示館の裏には昔からの橘屋の墓地もある。この丘は、良寛が何度も訪れたのはもちろん、円通寺へ旅立つ際に母が見送りをした場所でもあるそうだ。町外れの蛇崩の丘で良寛が最後に見た母は、遠いこの場所から手を振る姿だった。
記念館の脇を上ったところには〈良寛と夕日の丘公園〉があり、こちらからは出雲崎の町がよく見渡せた。家々の並びが整然としつつも窮屈に見えるのは、ほぼ全ての家が妻入りだからだ。通りに面して大棟(屋根の一番高い部分)が垂直になるよう家がひしめき、メインの入口も三角の切妻屋根の妻側にできている。例を挙げて説明すると、『ドラえもん』の野比家は切妻屋根で、三角に見える面(妻側)に家の入口があるので、妻入りである。『サザエさん』の磯野家もそうだ。『ちびまる子ちゃん』のさくら家は、屋根がつくる軒のある面(平側)に入口があるので平入り。だから、キン肉ハウスも平入りである。ということを書こうと思いながら「キン肉マン Go Fight!」を聴き、腕を組んで町を見下ろしていた。いい歌詞だ。
出雲崎町の場合、豪雪地帯のため入口の前に雨雪が落ちないように妻入りにするというのはもちろん、多くの人が居住できるようにという理由もあったようだ。江戸時代には越後で最も人口密度が高い町であったらしい。まじまじ見下ろすと、子どもが並べたようなかわいらしさも感じられてくる。
崖際に造られた階段を下って、地下通路を通り、町へと出る。日が傾いて眩しい海に片目をつむりながら良寛の生誕地、つまり橘屋の屋敷跡へ。目の前に遮るものなく日本海と佐渡島が見えるそこには、今は良寛堂や良寛の像がある。
少し離れた道端に「出雲崎よもやま話」と称して逸話を書いた看板が並んでおり、一つは「純粋な良寛さん」という題だ。良寛は幼名を栄蔵といったが、栄蔵には𠮟られている時に上目遣いで相手をにらむ癖があった。父がそれを直そうと「大人をそんな目で見る子どもは鰈になるぞ」と脅すと、栄蔵は家を出て行ってしまった。夕方になっても帰らず、母が捜しに行くと、栄蔵は一人で海岸の岩の上に座っている。なぜそんなところにいるのか聞くと、栄蔵は「鰈になったら海で生活しなければいけないので、直ぐに海に入れるように岩の上で待っていたのです」と話したという。
私は昔からこの話が好きである。近くの日本海夕日公園にこの姿をイメージした像があると知ってぜひ見たいと思ったが、帰りのバスの時間が迫っていた。泣く泣く良寛堂の目の前にあるバス停に戻り、日が暮れていくのを感じながら、そんな純粋な子が仏道修行と素朴な生活の果てに詠んだ辞世の句を思い出していた。「うらを見せおもてを見せて散るもみぢ」
写真/著者本人
乗代雄介(のりしろ・ゆうすけ)
1986年北海道生まれ。2015年「十七八より」で第58回群像新人文学賞を受賞しデビュー。18年『本物の読書家』で第40回野間文芸新人賞を受賞。21年『旅する練習』で第34回三島由紀夫賞を受賞。23年『それは誠』で第40回織田作之助賞を受賞し、同作の成果により24年に第74回芸術選奨文部科学大臣賞を受賞。ほか著書に『最高の任務』『ミック・エイヴォリーのアンダーパンツ』『パパイヤ・ママイヤ』などがある。