乗代雄介〈風はどこから〉第18回

乗代雄介〈風はどこから〉第18回

18
「水と記憶をたどって行こう」


 仙台市地下鉄の東西線と南北線は、長い髪が2本、無造作に重なったように仙台駅で交わっている。東の終着は荒井駅、2015年12月に開業した新しい駅で、本州最東の地下鉄駅だという。

 地上にある駅舎からロータリーとは反対の北へ出ると、梅雨めいた天気にあまり出くわさなかった6月下旬の青く輝く田圃の広がりの奥に建物の群れが見えた。地下には車庫へ向かう線路が延びているらしく、見えないそれを辿るように東へ向かう。仙台東部道路をくぐると、さらに見渡す限りの田畑である。伸び盛りの稲が水も畦も隠し、畑の緑は土と一緒になって様々な縞を作っている。イヤホンから Any Trouble「Growing Up」が流れてきて、足取りも軽い。

 インターチェンジに沿って北へ膨らみながらそれを見渡したあと東へ、田圃道に突っ込んだ。遠くでは、稲の海に脚を隠したダイサギが浮かぶ白鳥のように前へ流れる。目についたビニールハウスの中ではトウモロコシがひしめいて花をつけ、窮屈そうな夏である。

 圃場を渡りきって突き当たった赤沼は外周1キロもないくらいだが、鉄塔の並びがどこまでも見えるような場所ではとても広く見える。風のせいか、私の向かう方にある揚水機場が音を立てているせいか、水はそちらへさざ波を立てて流れていく。ヒシばかりの水草が、波を越すたびに大小の黒い影を作る。

 沼は南東にすぼまって用水路に形を変えた。辿って行ったところでは、水の道と人の道が込み入ってそれぞれ五つか六つに分岐している。水門には「八丁堀流域調整ゲート」とあった。江戸/東京の地名の元にもなった八丁堀という水路は、その長さが八町(約872メートル)であることから名付けられ、広島にも同じ由来をもつ水路や町があるけれど、ここはどうだろう。スマートフォンで調べると付近の地名に〈沼前八丁堀〉が出た。この「沼」は、さっきの赤沼か、この用水路の先にある大沼か、その両方か。水路沿いに大沼まで歩いて行ってみると、赤沼からおおむね八町という気がして納得したが、今度行ったらちゃんと調べてみたい。ちなみに、こんな時に使う最新の『仙台市史』は全32巻、私の知る限り最も大部の市史で、調べ物をする際にあれこれ見ずに済んで助かる。

 大沼ではカンムリカイツブリが目についた。国内では、北の方で増えているそうだ。西の畔の小径は、フェンスや舗装をものともせずに草木が生えて時折狭い。右手のフェンスの向こうはせんだい農業園芸センターの敷地で、9時半に開く通用門から花壇が見えた。入りたいところだが、あと30分ほどあるのであきらめて先へ進む。

 大沼もまた調整水門から南東に向かって用水路が延びている。それに沿って海の方へと向かう。大沼は太平洋から2キロほどのところにあるが、ここから海は見えず、私が歩いているところよりも一段高い地平線が視界の限りまっすぐ引かれているばかりだ。その上を車が走るのが小さく見えて、これを東部復興道路という。別名、かさ上げ道路。6メートルかさ上げされた道路が、海岸から1~2キロのところを長さ10.2キロに亘って続く。津波に対する多重防御の要として、令和元年11月30日に開通したそうだ。

 その内陸側に〈狐塚〉という祠があるとグーグルマップで知って、足を運んだ。狐は傾斜のある丘に横穴を掘って巣とすることが多いので、時々こういう地名や祠が残る。このあたりの地名も狐塚というらしい。

 偶然流れて意外と雰囲気に合ってよかったので、英語としての意味がアレでも書かないとしょうがないが、Nine Below Zero「Stone Fox (The Whistle Test Theme)」を聴きながらかさ上げ道路に近づくと、土手のすぐ下に、背の低い松が赤い鳥居と小さな祠を囲っているのが目についた。寄ってみた鳥居の足下では、アジサイの青が潑剌としている。お参りしてから調べたクチコミによれば、かさ上げ道路を作る際にこの場所へ移転したようだ。

 2011年3月に「オメメちゃん」さんが撮影した写真を見ると、距離からいって、もう少し海寄りの場所にあったことがよくわかった。田圃の中にぽつんとある、よく見るような祠だったのだろう。痛ましいけれど、不思議な力を感じざるを得ない写真で、ねじ切られるように倒れた電柱や根を見せて横たわる木の奥、水に浸った一面に浮かぶような低い丘の上に、松に守られた鳥居と祠がある。松は今より背が高いにしても、鳥居と祠は私の目の前にあるのと同じに見える。つまり、大津波を耐えたのだった。松はともかく、小さな祠と鳥居が残ったのは驚くべきことだ。

ぜひ「オメメちゃん」さんの写真と比べてほしい。
ぜひ「オメメちゃん」さんの写真と比べてほしい。

 かさ上げ道路には、もちろん津波対策を念頭に置いてのことだろう、それをくぐるようなトンネルは造られていない。こうして見上げると大きな川の堤防と変わりないが、そこに上がる道はほとんどない。だから、歩行者が安全にかさ上げ道路を渡るには、狐塚から1キロほど南へ歩かねばならなかった。

 そこでは、かさ上げ道路とその高さまで坂を上った道路が、大きな交差点を作っていた。安心の信号機付き横断歩道の先に、ひときわ大きな建物が見えて、なぜその造形から直感できるのかいまいちよくわからないが、小学校だと反射的に思う。

 下り坂の終わったところに入口があって、正面から見据えると、4階建て校舎のちょうど真ん中に「ありがとう 荒浜小学校」とハートで飾り付けたペンキ文字が描いてある。その手前は広い駐車場で、大型バスが4台とまり、運転手たちが出てきて談笑していた。

先生が次の予定を話していた。
先生が次の予定を話していた。

 ここは〈震災遺構 仙台市立荒浜小学校〉、被災時の状況を残して一般公開されている場所だ。広い駐車場はもともと校庭だったのだろう、バスは市内の小学生が見学に来ているものらしかった。

 外から校舎内を覗くと、1階の窓は抜けているものが多い。中は荒れて物はほとんどない。脇にある入口に向かおうとすると、2階ベランダの端にある金属フェンスがひしゃげて反り返り、今にも落ちそうに空中で錆び付いている。

 中に入ってまず感じたのは懐かしさだった。私が6年間を過ごしたのと何ら変わらない校舎の雰囲気に高揚しかける。だが、傍らに展示してある被災直後の写真には、つぶれた自動車が何台も押し込まれた1階教室が写っている。別の写真は低学年の教室らしく、床は瓦礫で埋め尽くされ、壁の一番高いところに貼られた、画用紙で作ったうさぎ付きの「なかよくしよう」という標語までが泥で汚れていた。瓦礫の片付けられた教室に目をやるとにわかには信じられないが、よく見れば、床に積もった土、湾曲した黒板、錆びた蛍光灯カバーや剝がれかけた天井材が垂れ下がる天井など、残された物は全てそれを伝えていた。

 荒浜小学校に到達した津波の高さは4.6メートル。1階は完全に水没し、2階の床も水に浸るほどだった。2階廊下にあるキャビネットは海水に浸かったところだけが錆びて、到達点をまざまざと知らせる。神妙に見ていると、階上から急に、何となくばらついた子供のざわめきが響いてきた。公開されていない3階を過ぎて上がってみた4階は、各教室が展示室になっている。ちょうどそれぞれの教室から出てきた小学生たちが、次の教室にローテーションで移動しているところらしい。その足音を基調に長い廊下のあちこちで頻々と発されている声の重なりが、私の立つ廊下の端まで押し出されてくるようで、また懐かしさを感じた。小さな声で挨拶をしてくれる子もいた。

 見学の邪魔にならぬよう、屋上や別の階を見て時間を空けた。その後で見た映像については書かないので、機会があればぜひ訪れてみてほしい。そこで痛みと共に回想される対応もあって、ここに避難、あるいは留まっていた320人は誰も命を落とすことはなかった。荒浜地区では約190人が亡くなっている。

 校舎前に整列して座り、最後の説明を受けている小学生たちの横を通って、荒浜小学校を後にした。海岸に沿って流れる貞山運河を越え、〈震災遺構 仙台市荒浜地区住宅基礎〉へ向かっていると、先ほどの小学生たちが乗ったバスに抜かされた。同じ目的地なのだ。

 少し離れて昼食を取り、クラスごとらしい見学の合間に見て回った。こうした住宅基礎が剝き出しになった光景が、震災後しばらくはあちこちにあったのだろう。すぐそばは長浜と呼ばれる海岸で、津波に耐えた細い松がこれら遺構を見下ろしているのは寂しい景色だが、あの日を忘れぬために人が敢えて残した景色でもある。道路を挟んだところに、慰霊碑と観音像が見える。

基礎で見ると狭く感じるところに生活があった。
基礎で見ると狭く感じるところに生活があった。

 子供たちがバスに乗って去ると、長浜に出て、北へ歩いた。Nick Cave & The Bad Seeds「Death is Not the End」を聴いていたのは、慰霊碑に手を合わせた時の気持ちといえばそうかもしれないが、そもそも何度聴こうと歌詞を読もうと、「死は終わりではない」ということが何をもたらすのか私にはわからないのだった。

 それとは別に、個人的な仙台との関わりが私にこの曲を選ばせていた。この曲のオリジナルは Bob Dylan で、それが収録された世評の良くないアルバムなら私はよく聴いていたのだが、映画『羊の木』を観てこのカバーを知った。『羊の木』は、山上たつひこ原作、いがらしみきお作画の同名漫画を元にしている。

 宮城県中新田町(現加美町)出身で仙台市在住のいがらしみきおさんにお会いしたのは、2023年の年末だった。子供の頃から尊敬していた人と仙台で鍋を囲むことになったその顚末は説明しづらいので、『IMONを創る』(石原書房)という本を読んでもらいたいけれども、とにかく私はいがらしさんのマンガや文章を読んで、生きるとか死ぬとかなんだかわからないけれど、そのなんだかわからないことを、この人のように、自分が生きる中で持ち得たものでちゃんと考えてみたいと思ったのだった。会って話して、もっとそう思った。

 この日の旅はまだ途中だけれど、紙幅が尽きてしまった。私はこのあと七北田川の河口まで浜を行き、川沿いを遡って高砂橋を渡り、また海に向かって川に沿って歩き、蒲生干潟に辿り着くと、そこでしばらく蟹と戯れていた。泣き濡れたりはしていない。

靴と腕を濡らして戯れた記録。
靴と腕を濡らして戯れた記録。

写真/著者本人


乗代雄介(のりしろ・ゆうすけ)
1986年北海道生まれ。2015年「十七八より」で第58回群像新人文学賞を受賞しデビュー。18年『本物の読書家』で第40回野間文芸新人賞を受賞。21年『旅する練習』で第34回三島由紀夫賞を受賞。23年『それは誠』で第40回織田作之助賞を受賞し、同作の成果により24年に第74回芸術選奨文部科学大臣賞を受賞。ほか著書に『最高の任務』『ミック・エイヴォリーのアンダーパンツ』『パパイヤ・ママイヤ』などがある。

「風はどこから」連載一覧

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