源流の人 第49回 ◇ 木田滋夫(読売新聞記者)

源流の人 第49回 ◇ 木田滋夫(読売新聞記者)

時効から60年、迷宮入りの「下山事件」。綿密な取材経て驚きの新事実を掘り起こした

 戦後史最大のミステリーと呼ばれ、今なお多くの人々の関心を呼ぶ「下山事件」。自殺、他殺、あるいは謀殺──、憶測が錯綜するなかで、警視庁捜査一課が主導した捜査本部は早々に「自殺ありき」で結論づけ、捜査を取りやめた。他殺説は封印。そうなった背景には何があったのか。捜査に従事した東京地検の担当検事の手記や、事件の鍵を握る「元憲兵」が出入りしたという「すげの町工場」をめぐる証言など、驚くべき新事実を次々と掘り起こした渾身のノンフィクションが刊行された。『下山事件 封印された記憶』(中央公論新社)。著者は読売新聞記者・しげ。木田は担当分野の仕事の傍ら、約20年にわたって下山事件に関する取材を続けてきた。その執念を結実させた木田が語る「封印された戦後史」とは。
取材・文=加賀直樹 撮影=松田麻樹

「きょうは急ぎの取材がありませんから、何でも聞いて下さい」。10月中旬、取材場所に現れた木田は柔和な笑みを浮かべていた。「夜討ち朝駆け、ゴリゴリの新聞記者」というよりは、丸の内や兜町界隈をさっそうと歩くビジネスパーソンといった印象を受ける。一言でいえば、シュッとしている。

 読売新聞は全国紙で唯一「教育部」という部署をつくり、たとえば「デジタル教科書」の拙速な導入や、膨張の一途をたどる「学習指導要領」など、日本の教育現場の喫緊のトピックについて鋭く斬り込んだ記事を発信し続けている。そのデスク(次長)として多忙な日々を送るいっぽう、木田は下山事件の取材を約20年にわたって続けてきた。「締め切り」が毎日何度もやってきて、しかも日本全国を取材範囲とする部署の新聞社デスクの身で、そうそうできることではない。

木田滋夫さん

「下山事件」とはいったい何だったのか。
 木田の著書を参考に、ここで一度簡単におさらいしておきたい。

 第2次世界大戦の敗戦から間もない1949(昭和24)年7月5日。日本国有鉄道(国鉄)の初代総裁・下山定則(当時47歳)は、東京・上池上町(現池上台)の自宅から出勤途中に立ち寄った「日本橋三越」で突如姿を消した。それから約15時間経った翌日未明、「三越」から約9キロ北北東に離れた東京・足立の国鉄常磐線の線路上で、下山はれきだん死体として見つかった。線路周辺には腕や足首、胴体、ワイシャツや裂けた革靴が約90メートルにわたって散乱していた。

「終始、不気味さがつきまとう出来事だった」。木田は著書にそう記している。発見直後、下山の遺体を見た医師は「自殺した可能性が高い」とした。国鉄職員の人員整理を当時の政権からゴリ押しされ、それに苦悩した下山が列車に身を投げた、と見立てた。いっぽう、遺体を解剖した東京大学法医学教室は、「死亡後に列車に轢かれた」と判断した。つまり下山総裁は、誰かに殺された後、線路上に置かれた可能性が高いというものだった。

 捜査にあたる警視庁捜査一課は「自殺」、東京地方検察庁と警視庁捜査二課は「他殺」と判断。「朝毎読」の各新聞、法医学界も見解は真っ二つに分かれた。ところが、一課を中心とする警視庁の捜査本部は捜査結果を公表しないまま、1年も経たずになぜか捜査体制を縮小。1964年には時効が成立。こうして下山事件は「迷宮入り」となる。

敗戦の香り漂うハマの街で

 戦後間もなく起きた謎だらけの事件。多くのジャーナリストや研究者たちは真相を追い続けた。1960年には推理小説家・松本清張がノンフィクション『日本の黒い霧』で、国鉄職員の人員整理を下山に命じた背景にGHQ(連合国軍総司令部)を関連付け、大きな話題となった。他殺説、自殺説、その双方を唱える数々の著作が発表された。そして記者たちが、その謎解きの暗い魅力に取りつかれることを「下山病」と呼ぶ者もいる。木田自身も間違いなくその一人だろう。きっかけは2003年、朝日新聞記者の諸永裕司による著書『葬られた夏 追跡・下山事件』(朝日新聞出版)に出合った時だったと振り返る。

「ちょうど2003年、入社4年目で横浜支局の記者だった頃です。神奈川県庁の担当記者として日々、知事や県議からネタを取る面白さはあったのですが、事件事故を担当していた頃から比べると、どんどん世の中から隔離されていっている気がしていた時期でした」

木田滋夫さん

 空き時間に書店に行き、木田は、政治の世界とは別ジャンルの本を買ってきては読みあさってストレスを発散させていた。その中の一冊が諸永の本だった。

「まず、タイトルに惹かれました。読み始めてすぐ『これ、絶対ジャーナリストが書いた本だろうな』って。アメリカまで飛んでいって、元GHQ将校に本気で取材している。強く引き込まれました」

 暮らしていたのが横浜の街だったことも大きかった、そう木田は語り添える。

「当時住んでいたのがほんもく。まさにアメリカに接収されていた米軍住宅があるエリアだったんですね。米兵向けの小さいバーやピザ屋さんが残っています。横浜には街中にも、大空襲で焼かれたまま廃墟になっていた旧・平沼駅跡や、接収当時からのホテルニューグランドがあって。僕は『敗戦の香り』って言葉を使うんですけども、どこかそんな空気の漂う街だった。それがこのテーマに引っ張られた一つの理由だったと思います」

 日々の取材の傍ら、過去の文献にあたり、アメリカ政府に情報公開請求し公文書を取り寄せた。また、事件関連の本に出てくる名前を手がかりに、GHQが重用したとされる旧陸軍の将校たちが、戦後何をしていたのかを調べていった。非番の日に、東京地検の当時の検事の家を訪ねたこともある。ただ、新事実は何もわからず、元検事の家族からは追い払われた。木田は振り返る。

「どれも成果のないまま、ただとりあえず動くだけ動く。そんな感じで取材を続けていました」

落とすかもしれなかった命、救えた

 いっぽうこの頃、木田の粘り強い取材姿勢が培われる源流となる事件があった。それは2000年代初頭、横浜支局から、神奈川県内の相模原通信部に配属された時のことだ。相模原市内の公園で、向き合って座る「箱ブランコ」に乗った小学校4年の女の子が転落し、ブランコが衝突して亡くなったのだ。木田は振り返る。

「ただ公園の遊具で遊んでいて、それで死ぬようなことがあっていいのか。過去の報道を調べると、各地で死亡・重傷事故が発生していることを知りました。これは警鐘を鳴らす必要があると思い、続報を打ちました。当時、安全基準がなく、遊具メーカーはそれぞれの仕様で作っていたことがわかったんです」

木田滋夫さん

 日々の取材活動をしながら、「箱ブランコ」の「一人キャンペーン」を木田は展開した。応援してくれる上司デスクの存在もありがたかった、と振り返る。

「自分が『これだ』と思ったテーマはどんどん深掘りしていいんだ。それを若手記者の時に気づかせてくれたんです。新聞記者らしい青臭さを奨励するそんな職場環境で育ったのが、自信を持って下山事件の取材を続けるきっかけになりました」

 木田の「箱ブランコ」報道をきっかけに、他社も追いかけるようになり、全国各地の自治体で「箱ブランコ」を撤去する動きに繋がった。ひょっとしたら落とすことになるかもしれなかった命を救うことができた。記者をやっていて、報道に携わって良かった。木田が強く実感した取材だった。

奇跡と呼ぶしかない、特ダネ発掘

 東京本社に異動になり、長期連載「教育ルネサンス」を担当していた2006年5月10日、いつものように各紙の朝刊チェックをしていた木田は、読売新聞「都民版」の小さな記事に目を留めた。急速に心拍が高まった。見出しにはこうあった。

「下山事件 貴重な資料展示 遺族の証言、捜査報告書掲載誌」

 下山の遺体が見つかった現場にほど近い、足立区五反野コミュニティセンターでの展示を報じる内容だった。読売新聞記事の本文を木田の著書から引用する。

「博物館が古書店から購入した、捜査に関するとみられるガリ版資料6点と事件を扱った雑誌8誌を公開している。(中略)ガリ版資料のうち、会議資料と思われるのは『他殺、自殺の根拠や疑問点』や『事件その後の捜査経過』など……」

 こうしてはいられない。会社を飛び出て、展示会場に向かった。木田は振り返る。

「もう本当に、よくそんな資料が出てきた、という感じでした。おそらく東京地検関係者の捜査書類がそのまま古本に挟まれて売られた。西日本の古本屋さんが仕入れたその古本を足立区立郷土博物館が意図せずに買ったんですね。実際見に行ったら、明らかに内部資料でした。『ここから取材が本格化する』、そういう直感がわき、武者震いが起きました」

木田滋夫さん

 ガリ版資料の各章のタイトルをここに記す。

「他殺、自殺両見地から事件を見た場合の根拠、疑問点について」
「下山事件その後(七月二十一日第一回合同捜査会議以降)の捜査経過」
「足首、靴、靴下止 散乱状況」
「機関車気圧放出試験」
「下山総裁を轢過した機関車を使用して行った試験結果(昭和二四・七・一五実施)」
「7月4日に於ける下山総裁の行動(大西運転手の供述に依る)」
「7月5日に於ける下山総裁の行動(大西運転手の供述に依る)」……

 長年コツコツ調べてきたのに掴めなかった「真相」。その「本丸」にいきなりたどり着いた実感を木田は抱いた。博物館の許可を得てコピーを取って持ち帰り、さっそく従来資料と読み比べていく。下山事件の取材はこうして加速した。ガリ版資料の最後の章のタイトルにはこう記されている。

「自殺に非ずとする下山総裁夫人の供述」

 資料の中身は木田の著書で詳述されている。

奇跡は続く

 2021年9月中旬のこと。
 相模原通信部の記者だった頃に木田が取材で知り合った永瀬一哉氏という人物から、1通のメールが届いた。永瀬氏は元・神奈川県立高校の地理歴史・公民科教師。知り合って20年以上になるが、木田と交流が続いていた。木田は語る。

「仕事中、メールの着信があって、何気なく開いてみたら、びっくりしました。鮮明に覚えています。椅子から崩れ落ちるほどびっくりしたんです」

 永瀬氏のメールにはこう書かれていた。

「さて、本日は一つ資料を見て頂けないかと思い、ご連絡申し上げました。資料とは1949(昭和24)年、国鉄下山総裁が常磐線で轢死体となって発見されたいわゆる下山事件を捜査した東京地検の担当検事にかつてお目にかかり、事件に関する私的メモを頂きました」

 永瀬氏が後日、木田のもとに持参した文書の表紙には、こんなタイトルが書かれていた。

「下山事件捜査秘史 元東京地方検察庁検事 金沢清」

 それまで永瀬氏は、木田が下山事件を追っていること自体を知らなかった。そもそも木田が神奈川県内に勤務しなければ、永瀬氏に出会うこともなかった。あまりにも運命的な、ドラマや映画の脚本ならば「展開が強引すぎる」と却下されそうな奇跡が、実際に起きたのだった。20年も前の繋がりを手繰り寄せて永瀬氏が連絡をしてくれたのも、取材先と大切に付き合ってきた木田の姿勢の賜物だろう。「捜査秘史」の内容は、これもすべて木田の著書に掲載されている。

「小菅の旋盤工」による新証言

 決定的となる特ダネを、木田は時間をかけて裏取りしていった。まず木田は、ある紙の束を入手した。2009年に取材先で偶然に手にしたものだ。台本のように、こんなやり取りが記されている。

「あんたやお兄さんがやっていた荒井工業はあの頃一体何を作っていたのですか? あんたが持っていたあのオーバーは、誰から買ったのですか? あんな高価なものを」
「あれはお前、鉄道弘済会から特別に買って貰ったものです」
「私は、下山事件に荒井工業が関係しているのは分かっていました」

 この文章を書いた老人に、木田は何度も慎重に取材を重ねていく。直接行って話すこともあったが、老人が体を壊してからは、手紙で質問事項を書いて、返信はがきを10枚ぐらい入れて郵送した。老人は、気が向いたときにちょっとずつ返してくれた。曖昧なことは妄想では語らない。時間を置いてかけた同じ質問には、きっちり同じ答えが返ってくる。

木田滋夫さん

 そうして丹念にやり取りするうちに、ある「決定打」に出合う。裏取り取材を重ね、それがピッタリ重なった時の静かな興奮は、木田の本に詳細に描かれている。そして、おそるべき事件の全貌が、木田の見解によって明らかになっていった……。

チャンスを与えてくれる風土、評価する読者

 木田の今回の著書は、読売新聞のウェブページ「読売新聞オンライン」で2022年12月から2023年9月にかけて連載したルポ「下山事件の謎に迫る」を、大幅に加筆し再構成したものだ。「1話読み切り」スタイルだった連載を、次へ次へと読み進めずにはいられないまるで映画のようなスタイルに再構成していった。そして「最終章」では、下山事件全体の構図、つまりGHQや吉田茂内閣の繋がりから、当時の国鉄の置かれた状況、そして末端の「謎の憲兵」、その男が出入りしていた「小菅の町工場」に至るまで、包括的に解きほぐすような展開にした。過去の先行文献の主張を精緻に網羅し、この1冊を読んだだけで、事件の全貌を知ることもできる内容になっている。連載時の読者からの反響について木田は振り返る。

「印象的だったのは、『いまどき、こんな取材をする記者がいて、それを許容する会社があることに驚いた』っていうSNSの書き込みです。僕自身、特別なことをやっているつもりはなく、調査報道の延長ぐらいの気持ち。でも、きちんと評価してくれる読者がいてくれるのがすごく嬉しかったですね」

 読売新聞の記者は、実名でのSNS発信が認められていない。そのことから、てっきり筆者は社風にどこか硬直した雰囲気があるのかと思っていた。そう言うと、木田は首を横に振る。会社の空気として「チャンスをくれる」社風があるという。木田は語る。

「今回も、『こうした連載をやりたい』と熱意を伝えたら、『オンラインでやってみるか』という話になったんです。じつは僕自身も、読売新聞社に入る時、『チャンスをくれる会社だな』と思った出来事があったんです」

 新卒時、新聞と放送局を受けて「全落ち」し、別の仕事に3年従事した木田。どうしても記者職を諦め切れず、新卒採用試験を再び受け始めた。そのうち読売新聞社には当時、年齢制限があって、応募資格は「26歳まで」だったという。ところが木田は、入社時に27歳になってしまう。そこで木田が取った行動には目を見張る。

「応募書類を送る時、一筆、『年齢で切るのではなく、その人の意欲をきちんと見るべきではないですか』って生意気な手紙を書いたんです(笑)。そうしたら受験票が送られてきました。ちゃんと主張すればチャンスをくれる会社だと実感しました」

木田滋夫さん

 内定を勝ち取り、新卒採用の中では「ちょっとだけ年齢の高い記者」として木田は入社した。オンライン連載時に社内からは、こんな声が届いたという。

「新聞記者に向いてないと思って辞めようと思っていた。でも、木田さんが目を輝かせて連載原稿を書いているのを見て、この仕事をもう少しやってみたいって思い直しました」

 木田は語る。

「すごく嬉しかったですね。新聞記者の仕事はダイナミックだし、こんな面白い仕事ないって思う。でも、なかなか伝わらない。自分の姿を見てそう感じてくれて、若い記者が続いてくれる。記者の面白さがわかってくれる。だとすれば、こんな嬉しいことはないなと」

占領地での主権とは

 取材を重ねて木田自身が最も強く感じたジレンマは、「占領下」の権力構造についての情報が十分ではないことだ。日本が1952年に独立を回復し、「55年体制」になって高度経済成長を成し遂げ先進国に仲間入りする。そんな輝かしい歴史は学ぶ。敗戦から独立回復するまでの間については、闇市、戦災孤児、復員兵といった庶民の話題は目にする機会が多い。ところがそのいっぽうで、時の権力構造がどうなっていたのか、じつは学校でもほとんど教えない。文献を見ても体系的に書かれたものがなかなか見当たらない。木田は語る。

「当時、GHQが日本政府を通じて統治し、その中で内閣や国会、司法、捜査機関が形の上では整っていても、それが占領下でどのぐらい独立性を持っていたのか。そのあたりが僕自身も取材していて、未だによく見えていないんです。引き続き専門的に研究したいと思っています」

木田滋夫さん

 そしてこれは、形を変えた今も引きずっているのではないか。木田はそう付け足した。現代の日米関係の原点である占領期の日米関係を、「言論の自由」が保障されている今、それをフルに生かした責任感をもって臨みたい。木田は言い切る。

「きちんと記録していこうと思います。過去の事件を1冊の本にするのもそうですし、あるいは日々の報道もそうですけども、『知る権利』を発揮していく。そういう責任があると思っています」

「御巣鷹」が、木田が報道に目覚めた最初だった。中2の夏休み、満席の日航ジャンボジェット機が群馬県の御巣鷹の尾根に墜落し、いっぺんに520人の尊い命が犠牲となった。平和な日本に生きる中学生として、「人生で一番の衝撃を受けた」と木田は言う。テレビのニュース特番を朝から晩まで観て、購読している新聞をじっくり読み続けた。連日報道に接する中で、現場からリポートするテレビ記者や、文字で新情報を伝える新聞記者に憧れるようになったという。

「僕自身、新聞記者というのはすごく思い入れのある仕事です。現場に立てる限りは最後まで立ちたい。いつまで最前線に立てるのかはわからないですが、生涯一記者でありたい。チャンスがあればずっと取材して書きたい」

下山総裁の死を美化してはいけない

 本として刊行が実現したのは一つの区切りではあるけれど、木田は下山事件の取材をライフワークとしている。

「これで卒業というつもりはまったくないんです。アメリカの公文書についてもっと調査したい。いろんなメディア、あるいはジャーナリスト個人が、情報のアップデートをしていくのは大事だと思います。調査報道の一つの形。新聞記者の仕事には、こういうアウトプットの方法もある。一つの例になれば」

 木田が強く思うのは、下山の死は「国鉄総裁というポジションだったからこそ」起きたということだ。下山個人が恨みを買っていたわけではない。だから「日本が再起するきっかけになった事件だった、意味のある死だった」などと肯定してはいけないと強く思っている。

「一人の命がどうなっても、やむを得ないっていうのは、許しがたい論理です。『尊い犠牲だった』っていくら言っても美化にすぎません。代償を押しつけてよしとすることは、記者として許しがたい」

木田滋夫さん

 一般市民の視線を保ち、下山定則という一人の死を簡単に消費してはいけない。そうした思いをつねに貫いていく。「記者として許しがたい」と言い切るその言葉からは、木田自身の記者としての立ち位置、視点、さらに言えば矜持が、しっかり伝わってきた。思えば相模原の「箱ブランコ」キャンペーンの頃から、それは一貫しているのだろう。

「室町茶寮」広告の謎

 最後の最後に、本には盛り込まれていない「下山ミステリー」のひとつを、木田が語ってくれた。

「三越前駅の地下道に、『室町茶寮』っていう飲食店があった。それは既に書いたんですけれども、国鉄幹部の会合場所として使われていた飲食店なんですね。警視庁がリークしたといわれる『下山白書』では、『室町茶寮』の支配人の証言があって、下山総裁が行方不明になった7月5日の午前10時ぐらいに男5人が店に来て、お茶と菓子を頼んで20分ぐらい話して出ていったっていう証言をしているんです」

 木田は続ける。

「それに対し『下山白書』は、『この店の開店時間は午前11時だから証言が事実とは認められない』って即座に却下しているんです。ただ、すごく不自然だなと思うのが、支配人の証言はかなり具体的で、年恰好や、20分ぐらい話してお茶とお菓子を食べていたとある。『そんな嘘、つくだろうか?』と。自分の店の開店時間を知らずに、『午前10時ごろぐらいに来て』なんて話をするだろうかって、すごく引っかかっていたんです」

 そんな折、木田は、あることに気づいた。

「『室町茶寮』の広告が読売新聞に載っているんですよ。それでこの広告の掲載状況をバックナンバーから調べてみたんですよね。そうしたら、『室町茶寮』の広告が初めて出たのが1946年で4回。47年に9回、48年で0回、下山事件が起きた49年は14回。49年に下山さんが国鉄総裁に就任したのが6月なんですけど、6月だけで9回。で、事件が起きた7月は3回。そして8月の1回を最後に、『室町茶寮』の広告は読売新聞から姿を消すんです』

 木田がそれで想起したのは、1984年から85年にかけて起きた「グリコ森永事件」だ。あの時には、新聞の尋ね人広告が、犯人へのメッセージに利用されていた。木田は続ける。

「『室町茶寮』の新聞広告は、ひょっとしたら、内輪だけにわかる暗号として使われた可能性があるんじゃないか、って思ったんです。今回の本や連載に書くほど確たるものをつかんでいるわけではないんですけれども。とはいえ、なんでしょうね……、下山事件とものすごく連動しているんです」

木田滋夫さん

 読売新聞の広告に、一つの小さな飲食店の広告がこんなにも高頻度に載っている。そしてそれがパタっと消えてしまう。しかも事件前後に完全に連動している。長年、事件を追っているからこそ古びた資料の中に嗅ぎ付けられる「匂い」なのかもしれない。真相は闇の中だが、背筋が凍る。

「すごく不可解な状況証拠の一つです。広告が載った日は、ここで会合があって、情報屋が集まる、とかね。国鉄の幹部とやり取りする日の朝に必ず広告を載せるとか」

 下山は、鉄道省時代から技術畑でキャリアを積み上げた、生粋の「鉄道好き人間」だった。そんな彼が仮に自死を決めたとして、その死に場所をはたして線路にするだろうか。愛する蒸気機関車をはたして穢すだろうか。下山事件の数日後、とある政府要人が、読売新聞社社長ら二人に手紙で送ったという文面が、木田の本で紹介されている。

「暑さ厳しきを益す昨日、今日、今頃はさぞかしお二人とも冷やかな鉄路を枕に、快きお昼寝のさ中かと案じ一筆御見舞申上候」

 木田の追跡はどこまでも続く。

木田滋夫さん愛用の品
左:柳田邦男による『マッハの恐怖』は木田の報道記者としての在り方を方向づけたノンフィクション作品。何度も繰り返し読み込んだ跡がうかがえる/右:アメリカ・ハミルトン社のアイコンウォッチ「ベンチュラ」。1950年代のモダンデザインに魅了され、現在は二代目を愛用中

木田滋夫(きだ・しげお)
1971年神奈川県藤沢市生まれ。読売新聞記者。大学卒業後、情報業界を経て、99年に読売新聞社入社。横浜支局(神奈川県庁担当)、東京本社社会部(環境省担当)、中部支社社会部(愛知県警担当)、千葉支局デスクなどを経て2019年より東京本社教育部。23年に同部次長。

木田滋夫さん

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