乗代雄介〈風はどこから〉第20回

乗代雄介〈風はどこから〉第20回

20
「蓮田の広がる湖畔を行こう」


 11月上旬の茨城県土浦市は、めっきり寒くなったとはいえ、日が出ていると肌身に温かさも感じる気温だった。仕事があったせいで寝坊して、昼頃に動き出したのだから余計である。

 土浦市は〈自転車のまち〉を掲げており、JR土浦駅ビル内の「りんりんスクエア土浦」には、コインロッカーやシャワールーム、サイクルショップなど、サイクリストのための様々な施設がある。レンタサイクルの窓口もあって、手ぶらで来てもサイクリングに繰り出せる。駅直結のホテルにも、各フロアに自転車スタンドが置かれ、自転車と一緒に泊まれる部屋も用意されていた。

 広々とした跨線通路にも自転車スタンドがあり、しゃがみこんで整備をしている人が何人もいた。〈つくば霞ヶ浦りんりんロード〉のコースは、日本で二番目に広い湖、霞ヶ浦を一周する道を中心に構成されている。正確には、霞ヶ浦水域の西浦一周だが、そこに繰り出すと思われる自転車が、駅から霞ヶ浦方面へと出て行く。

マンションと新川とりんりんロード。
マンションと新川とりんりんロード。

 その流れに乗って、土浦駅東口から湖畔に出ようと歩き始めてみた。〈おむすび丸〉という勇壮な名の船が係留されている土浦港から北へ、湖畔に沿って進む。すぐ左手に立派な野球場が見えて、ウグイス嬢による選手名のアナウンスが聞こえてきた。

 誘われるように門から入ると、横から見た内野席の壁がきれいな三角の形にそびえる。赤丸に白抜き文字で「J:COMスタジアム土浦」と書いてあり、市営球場のネーミングライツだ。一塁側の内野席に上がると、一万人は入りそうな立派な球場で、青空の下、土の内野と天然芝の外野に白いユニフォームが散らばっている。フェンスの表示を見ればセンター122メートル、両翼99メートル。明治神宮野球場より広い。左中間後ろに立つスコアボードなんか、この晴天でもくっきり視認できる全面LEDで、スピードガン表示までついている。そこに、一球ごとに「110km/h」とか出るのだ。

 この時は、東洋大学付属牛久高等学校と牛久栄進高等学校の練習試合が行われていた。内野席にOBや家族らしき人が十数人固まっているだけの練習試合のようで、こんな立派な球場でやる試合はさぞ楽しかろうと思うが、いつもここだから慣れたものなのだろうか。

 飛び交うかけ声がよく聞こえ、打球音も快く、あとは異様にテンポが良いので気付けば数回が経っていた。バッターが手を出さない時は、ピッチャーが十秒で三球ぐらい投げている。少し点差が開いて五回が終わると、今の試合に出ていない両軍の選手にコーチや顧問も交じっているのだろうか、赤や青のグラウンドコートが入り乱れてグラウンド整備が始まった。数十人が声掛けもなく最初から決まっていたわけでもあるまい適所へトンボを引き引き広がっていく姿は、高校で部活に入らず今とほとんど変わらぬ一人で書く生活を始めていた自分には、とても眩しく見えた。終われば、内野はすぐそばの湖面のように静まりかえっている。その土へ小走りで入って行く二塁手の後ろには、キツネのようなまっすぐの足跡がひょろひょろとついた。

ずっと見ていられる。
ずっと見ていられる。

 自分が高三の時に出てよく聴いていた岡村靖幸の「ミラクルジャンプ」を流しながら六回表。今になってこううらやましく思うのだから、あの頃の自分の中にも、歌詞のような「シャイでひきこもりの日常」から脱したいという気持ちがあったのだろうか。交代で入ったピッチャーの制球が定まらずにランナーこそたまったが、最後なんとかゲッツーで切り抜けたのを見送って、球場を後にする。ずいぶん長居をしてしまった。

〈つくば霞ケ浦りんりんロード〉の案内に沿って〈りんりんポート土浦〉という休憩所を過ぎて新川沿いを進む。二匹の猫に会う。猫のことは何度も書いているので今回の触れ合いは自分の中にしまっておくが、彼らとか、潜水の合間に顔を見せるカンムリカイツブリとか、河口部に群れていたオオバンとか、生き生きと動くものたちがいなければ、私はこんなに歩いていられないだろうと思う。

 今度は境川を渡って、複雑な形をした霞ヶ浦西浦の、湖が大きく窪んだところへ進んでいく。ここからしばらくは蓮田、つまりレンコン栽培の景色が続く。土浦のレンコン生産量は日本一を誇る。秋は収穫の季節だ。一面に広がる蓮田には細かな水草が浮かび、あちこちで水面から突き出ている蓮の茎は途中で力尽きたように折れ、枯れて萎えランプシェードのようにすぼまった葉の先を水に沈ませている。その冷たく固まったような水の底、泥の下には、太った地下茎があるのだろう。ぽっかり空いて水を張っただけになっている田の片隅には、出来損ないのレンコンが山積みされている。

秋の土浦。
秋の土浦。

 この景色には、高校時代から親しみがある。休日、気まぐれに電車に乗って土浦を過ぎる際、よく車窓から眺めたものだ。水面などちょっとも見えない夏葉の盛りを知りつつ秋の深まったこの時期の蓮田を見渡せば、わびさびに縁遠い学生にだって感じるものがあった。後になって「本物の読書家」という小説に書いたこともあり、こういう景色に指導されてここまで来たように思っている。

 道の向こうから、本格的な格好をしたサイクリストたちが次々やって来る。朝から反対回りに湖を一周したら、このくらいの時間に戻って来るのかもしれない。何をするにも徒歩時間でしか計算できない自分にとっては、まったく信じがたい速さである。左に蓮田、右に湖。そんな道を、原田真二の「キャンディ」を聴きながらのんびり歩く。作詞・松本隆の曲を聞き集め始めたのも高校時代だった。サブスクも動画サイトもなかったので、図書館と中古とレンタルで相当がんばったけれど、今調べたら2100曲以上あるらしい。半分も聴けていないと思う。

 まさにレンコンの収穫作業中で、ご夫婦だろうか、泥水に胸のあたりまで浸かりながら浮いたレンコンを寄せ集めている。テレビでも芸人が収穫を体験しているのをよく見るのは、それだけ過酷な作業だからだろう。遠くまで蓮田が広がるけれど、収穫を終えた田の方が断然少ない。農道のそこかしこに、水流でレンコンを掘り起こすための作業用ポンプをはじめ農具が濡れて置かれたままになっていて、これから日一日と寒くなっていく中、収穫作業が続くのだろう。今まさにトラクターで泥を起こしている田に、食欲旺盛なサギたちが大集合している。数十羽に囲まれて作業をするのはうれしいだろうなと思うが、それも慣れっこなのだろうか。

 田村揚排水機場を過ぎて数百メートルほど行くと、小さな鎮守の森に鳥居が見えた。水神宮である。ここまででいくつか見た水神宮は石祠に覆屋をかけたものだったが、ここには小さいが社殿もある。屋根には立派に見せたい下り棟が施され、向拝の彫刻も手の込んだもので、一手間かけたかった気持ちがひしひしと伝わってくる。離れて裏に回った蓮田越し、木々の間から覗く姿も美しかった。

 午後四時の空は少しずつ青が抜けて、雲の底にうっすら翳りが見え始めたが、それでもずいぶん明るいので、晴れの日の湖に来ると聴きたくなる Of Monsters and Men の「Lakehouse(The Cabin Sessions)」を流して歩く。バンドメンバーの母国であるアイスランドのそれとはだいぶ違うだろうけれど、聴きたくなるからには通ずるところもあるのだろう。

 とか言いながら、このあたりで湖を離れることにした。今回は小説の取材も兼ねているので、霞ヶ浦を中心とした展示があるという〈茨城県霞ケ浦環境科学センター〉に行っておかなければいけないのだ。午後五時までなので、最短距離で向かわなければいけない。

 舗装された田圃道の先を見上げると、電線にコサギがとまっていた。足が電線にとまるようにはできていなくても、体を前後に振りながらなんとかバランスを保とうとしている。そのうち電線も揺れ始めて、飛び降りるように離れた。豊かな水辺となる蓮田のおかげで、どこを見てもサギが目に入る。都内ではたまに耳に入ってうれしい鳴き声も、ひっきりなしに聞こえてくる。民家が並ぶあたり、裏手が低い丘になって木々が連なっているところにも、アオサギが凜と湖を見下ろしていたりする。

 沖宿という湖畔らしい名の町を歩いていると、また黒猫に遭遇。触らせてくれた。〈沖宿町構造改善センター〉なる集会所には山車小屋もあり、壁に「沖宿ばやし」と書かれて興味深い。どんどん歩き、〈沖宿蓮根支部集荷所〉や、日本家屋と作業場が隣接した鉄工所など、ぐっとくるものを沢山見ながら、最後に坂を上り、〈茨城県霞ケ浦環境科学センター〉までやって来た。時計を見ると午後四時半、展示もぎりぎり見られそうだ。

 建物正面に回りこんだ時、低く吠える犬の声が聞こえた。門の正面から延びていく道の方から聞こえるばかりで姿は見えないが、それにしても吠えている。と、その道に面した広い草っ原の、こちらから見える一番奥に何か見えた。大きな茶色い塊が動いている。遠いし草の丈も高いため、ただ茶色い塊がふらふら動いて見える。犬はそれに向かって吠えているようだった。茶色い塊はすぐに森の方へと消え、犬の声も少ししてやんだ。

 一瞬の出来事で啞然としていると、曲がり道の奥から、犬連れの人が現れた。鼻先の黒い日本犬で、あの子が吠えていたらしい。お話をうかがってみようと近寄ったら、正面から吠えられてしまった。もちろん恐れなど全くない、主人を守らんとする犬の本能の奮った勇ましさだ。しかも近くで見ると、見え始めの印象よりもずっと大きな膝上ぐらいの体高で、体つきも実にたくましい。

 リードというか綱と呼んだ方がしっくりくるものでそれを軽々と制する、いかにもこの子のご主人という飼い主さんに尋ねてみると、やはりさっきのはイノシシだと言う。しかし、この子を見た時の印象を考えると、それよりずっと遠い距離ではっきり大きいと思えたのだから、どれだけの大きさであったのか。

一番奥の黄緑でイノシシを見た。
一番奥の黄緑でイノシシを見た。

 吠える犬に「ごめんね」と謝ってから視線を上げて「よく出るんですか」と尋ねると「このへんじゃしょっちゅうよ」と、本当にしょっちゅうなんだろうなという余裕の感じで答えてくれた。主人に迂闊に近づく者はヒトもイノシシも分け隔て無く吠える忠犬の名前はその絶え間ない威勢で聞くことができなかったけれど、おかげで今後も飼い主さんの身の安全は保証されているのであった。

 目的にしていた展示は午後四時半で終わりとのことで見学することはできなかった。それでも、勇敢な犬が間近で起こした空気の震えを思い出しながら、満足して帰った。

写真/著者本人


乗代雄介(のりしろ・ゆうすけ)
1986年北海道生まれ。2015年「十七八より」で第58回群像新人文学賞を受賞しデビュー。18年『本物の読書家』で第40回野間文芸新人賞を受賞。21年『旅する練習』で第34回三島由紀夫賞を受賞。23年『それは誠』で第40回織田作之助賞を受賞し、同作の成果により24年に第74回芸術選奨文部科学大臣賞を受賞。ほか著書に『最高の任務』『ミック・エイヴォリーのアンダーパンツ』『パパイヤ・ママイヤ』などがある。

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