鳴海 章『鬼哭 帝銀事件異説』

鳴海 章『鬼哭 帝銀事件異説』

帝銀事件の理由


『鬼哭 帝銀事件異説』には、主人公が土下座して、涙をぽろぽろこぼしながら「鬼になる」と叫ぶシーンがあります。

 このシーンを書いたのは、7度目の改稿をしているときでした。原稿はほぼでき上がっているのにクライマックスが今ひとつぼやけた感じで、書いては消し、また書いては消しをくり返していました。頭蓋骨に灰色の粘土をぎゅう詰めされているような日々でした。

 書こうとしていたのは、愛おしい者のため、悪事に手を染めた主人公が一身に罪を背負って始末をつけると決意する。でも、その相手のためならば、もう一度同じことをする……。

 ふと中島みゆき『空と君のあいだに』のサビが脳裏をかすめました。サビしか記憶になかったので、ちゃんと聴いてみようと思い、1回聴きました。足りない。2回、3回……、7回つづけて聴いたとき、涙があふれ、土下座する男と彼が愛した相手の姿がはっきりと見え、そして「鬼になる」というフレーズにたどり着いたのでした。

 本作は、昭和23年1月26日に起こった事件をベースとしています。帝国銀行椎名町支店(当時)に強盗が押し入り、たまたま居合わせた行員や、小学生の男児をふくむ用務員一家の合計16名に青酸系の毒物を飲ませ、そのうち12名を殺害、現金約16万円と額面1万円の小切手(現在の価値に換算するのにいろいろ考えがありますが、本作では約100倍と想定)を強奪した凄惨なものです。

 事件には、連合国軍総司令部、いわゆるGHQが関与したといわれており、証拠とされる文書として警視庁捜査主任の手記が残されています。連合国軍とはいえ、主体はアメリカであり、当時の日本はその占領下にありました。発生から7ヵ月後、犯人とされる人物が逮捕され、死刑判決を受けましたが、執行も釈放もされないまま、39年後に獄中死しています。

 真犯人、実行犯を描くため、とくに考えをめぐらせたのは次の3点です。

・被害者が16人にものぼった理由
・被害額17万円の事件でアメリカが謀略をめぐらした理由
・死刑判決が出ながら執行されなかった理由

 史実に矛盾しない筋道が見えたとき、真犯人が浮かんできたのでした。

  


鳴海 章(なるみ・しょう)
1958年北海道帯広生まれ。日本大学法学部卒。91年航空小説『ナイト・ダンサー』で第37回江戸川乱歩賞を受賞し、デビュー。近著『竣介ノ線』(集英社文庫)をはじめ、アクション、警察、歴史、SF等、幅広いジャンルの作品を発表。映画『風花』『雪に願うこと』、ドラマW『俺は鰯』の原作者でもある。

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鬼哭 帝銀事件異説

『鬼哭 帝銀事件異説
著/鳴海 章

採れたて本!【海外ミステリ#25】
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