杉山響子『憤怒の人 母・佐藤愛子のカケラ』

思い出が消える前に
時々、私に兄弟がいたらと想像することがある。そうしたらいろんな思い出は家族みんなで紡がれていくに違いない。勘違いや記憶違いは正され、忘れていた部分は誰かの記憶に補われて色鮮やかなままいつまでも脳裏に残るに違いない。
私は母が認知症になって慌てふためいた。母は何でもかんでもどんどん忘れていく。自分の家がわからなくなり、過去を思い出せなくなって、私は思い出を補い合う唯一の家族を失うことを知った。私は母を揺さぶりたくなった。
「ここはあなたの家よ! あなたが借金取りから守った家。ほら田畑麦彦が会社を倒産させて借金の三番抵当にまで入ったのを守ったんでしょ? 田畑麦彦よ。忘れた? 『すまない。会社、つぶれた』でおなじみの!」
そう言っても母はきょとんとしていた。
「すまない会社つぶれた」は我が家の歴史の中で一番の大事件だ。これが原因で父が家を出、私と母の二人暮らしが始まり、母が直木賞をとった。母との思い出もここから始まっていると言っていい。
思い出を共有するたった一人の家族から記憶が消えた時、思い出はどうなるのだろう。
私はシャボン玉のようにフワフワと空中を漂っていくように感じられた。楽しいことも腹立たしいことも大事なことも、儚いシャボン玉になって漂い、色褪せ、やがてはパチンと弾けてしまう。あたかもそんな時間など最初からこの世に存在しなかったかのように弾けて消えてしまう、そんな風に感じたのだ。
だから私は大急ぎで母の担当だった橘高さんに頼んだ。
「書かせてもらえませんか?」
この本にあるのは思い出の数々だ。私はまだ母が生きている間に、私の記憶が色鮮やかな内に書き残そうと奮闘した。それはまずまず成功したのではないかと思う。
幼い頃の私、多感な頃の私、恋していた若い母、無邪気丸出しのお嬢ちゃんの母、彼女たちは弾けて消えることなく当時の姿のまんま色鮮やかに本の中に生き続けるだろう。
私は今、心残りだった大きな役目を果たした気分で心底ほっとしている。
杉山響子(すぎやま・きょうこ)
1960年東京生まれ。『戦いすんで日が暮れて』『血脈』『九十歳。何がめでたい』などで知られる直木賞作家・佐藤愛子を母に、「嬰へ短調」で文藝賞を受賞した作家・田畑麦彦を父にもち、幼少期に両親の離婚を経験。89年に結婚し91年に桃子を出産。愛子センセイとは長年ひとつ屋根の下で暮らす。著書に『物の怪と龍神さんが教えてくれた大事なこと』がある。愛子センセイの愛読者には「娘と私」シリーズのキョーコさんでおなじみ。






