著者の窓 第55回 ◈ 一木けい『あなただけに許す距離』

著者の窓 第55回 ◈ 一木けい『あなただけに許す距離』
 一木けいさんの新作『あなただけに許す距離』(小学館)は、東京で暮らす男女の間にあるさまざまな距離感をすくいとった、珠玉の恋愛小説集。求める相手に求められない切なさ、パートナーがいても感じる寂しさ、思うように生きられない現状への葛藤──。現代に生きる女性たちにエールを送る本書について、一木さんにインタビューしました。
取材・文=朝宮運河 撮影=松田麻樹

人との心地よい距離感って何だろう、という問いかけ

──『あなただけに許す距離』は5編の恋愛小説を収める作品集ですね。執筆のきっかけや本の成り立ちについて教えていただけますか。

 この本が生まれるきっかけになったのは「パーソナルスペース-9.8cm」という短編です。衝動に駆られて、どこからも依頼されていないのに書き上げた短編だったんですが、これを誰に読んでもらおうと考えて、最初に浮かんできたのが、当時小学館の担当だったMさんでした。彼女とは気安い間柄で、恋愛トークもよくしていたので、これを世に出す力になってくれそうだと思ったんです。送ったら案の定面白がってくれて、媒体をすぐに見つけてくれました。

──そこからこの本の企画がスタートしたということですね。

 そうです。書きたいアイデアをざっと一行メモにして、Mさんにお見せしました。その時書きたいものを優先するので、結局メモは全然役に立たなかったんですけど(笑)。打ち合わせで話していたのは、カフェやバーで待ち合わせをしている時間に読める本にしたいねということ。働いている女性の話が読みたいというMさんの意見もあったので、主人公たちがどんな仕事に就いているか、比較的しっかり書くように意識しました。

──「パーソナルスペース-9.8cm」はファストフード店の〝推し〟スタッフ・亮之介との関係を続ける映子の物語。彼女は、ずいぶん年下の亮之介に心惹かれ、距離を縮めていきます。

 この小説で一番書きたかったシーンは、二人がライブ会場にいる場面なんです。人ごみを掻き分けて、亮之介がどんどんステージのそばまで進んでいく。本当はあんなことしちゃいけないんですけど、その非常識な行動が映子の壁を蹴破ってくれる。亮之介はもしかしたら他の人からは眉をひそめられることがあるタイプかも。でもだからこそ映子には魅力的に映る。そういう人との出会いが必要な時期も、人生にはあるのかもしれません。

一木けいさん

──そんな映子に思いを寄せているらしいのが、大学時代の後輩・寺瀬。一般的な価値観では寺瀬の方が「いい人」に思えるのですが、映子の心は動きません。

 映子は自分が好かれているかどうかより、自分が相手を好きかどうかが大事なんです。何を大事にするか、優先順位がはっきりしているんですよね。だから迷わず亮之介との関係を選べる。正式につき合いたいとかではなく、もちろん結婚したいとかもなくて、ただ一緒にいたい、くっついていたいという気持ちです。それに溺れる楽しさを書いてみたいと思いました。

──印象的なタイトルは、映子が測ったあるものの長さに由来します。当初は赤の他人だった二人ですが、その距離感は日々変化し、最終的にはぐっと接近します。

 人との心地よい距離感って何だろうということは、この本に限らずよく考えます。分かりやすい例だと、カフェなどの列に並んでいる時に、「そこに立つ?」というくらい接近する人っているじゃないですか(笑)。そういう物理的な距離にしても、連絡の頻度にしても、心地よい距離感って相手によって変わる。「パーソナルスペース-9.8cm」だと亮之介がガムの包み紙をむいて映子に渡すというシーンがあるんですが、あれを読んでくれた人の中でも親密さを感じるという人もいれば、衛生的に気になるという人、自分は無理という人もいました。これは面白いなと思って、同じシーンを他の短編にも登場させることにしました。

どんな恋愛の形があっても不思議じゃない

──残りの4編についても順にうかがいます。「谷底の蝶々」は夫と元恋人との間で揺れ動く女性の心理を、繊細なタッチで描いた作品です。

 モンシロチョウは午前と午後とで世界の見え方が違うらしいんです。午前はつがう相手を探していて、午後になるとお腹が空いて花が目に入るようになる。図鑑でそのことを知って、印象に残っていました。この物語において谷底というのは渋谷のこと。一時期渋谷にある出版社に通っていたことがあるんですが、あのあたりは本当に坂が多いんですよ。その当時教えてもらった渋谷川などについての知識が、作品にも生かされています。

──アップダウンのある渋谷の地形が、物語の内容と重なって効果を上げていますね。

 当初はあまり意識せず書いていたんですが、初稿を読んでくれた担当さんが、渋谷の地形を二人の男性と重ねてはどうかと提案してくれたんです。坂の上の神泉のあたりには元恋人の音也がいて、谷の底の渋谷駅には夫の律がいる。東京のいろいろな街を描くというコンセプトがこの短編から生まれて、すでに書き終えていた「パーソナルスペース-9.8cm」と「星」でも吉祥寺とか狛江とか、具体的な地名を出すように加筆しました。

──「卵とキウイ、あるいは跨線橋」で描かれるのは三鷹にかつてあった古い跨線橋。太宰治が歩いたことでも有名な場所です。

 あの辺りをよくさんぽしていたことがありますが、あそこから見る夕陽の迫力がすごいんです。いつかこの景色を書きたい、と思っていました。あの跨線橋で夕陽を見ているのはどんな人だろうと考えて、年の離れたカップルが浮かんできました。それと以前ジムのトレーナーさんに聞いた「卵とキウイで完全栄養食」という話が組み合わさって(笑)、この話ができたという感じです。

──いつまでもプロポーズしてくれない恋人に見切りをつけた主人公の綺梨は、婚活アプリで柊介という好みの男性と出会います。しかし彼から驚きの提案をされて……。「ふつうの結婚」を望む綺梨は、人生の岐路に立たされます。

 わたしだったら迷わず柊介を選びますね。好きになった人だし、彼が口にした提案も、突飛かもしれないけれど子育ての可能性を考えると合理的。ポリアモリーを扱った『彼女がそれも愛と呼ぶなら』を書いた時にも感じたんですが、人によって愛の形はさまざまだし、そういうカップルがいたって全然おかしくはない。「パーソナルスペース-9.8cm」のような年の差がある恋愛も、「卵とキウイ、あるいは跨線橋」のように別のパートナーがいる相手との恋愛も、特別視するようなものでもないと思います。

一木けいさん

──しかし綺梨は「そんな結婚、変」と感じます。「そんな結婚変なんて誰にも言えないよ」という友人のアドバイスに、「それは、変じゃない結婚をした莉子だから言えるんだよ」と返すのが印象的です。

 いわゆる「ふつうの結婚」をした莉子がハッピーかといえばそうでもない。人から変と言われるような愛の形であっても、互いが満たされるなら選んだっていいとわたしは思うんです。結局、綺梨はある決断をすることになりますが、自分だったらどうするか考えながら読んでもらえたら嬉しいですね。

わたしも凛太郎タイプ。枠があると逃げたくなるんです

──「恋と厚顔」はイラストレーターの凛太郎と、俳優でエッセイストの日菜との恋愛を描いた作品。クリエイターのカップルを登場させた理由は。

 出版社の薄暗い廊下を出会いの場にしようと思ったんです。じゃあどんな職業だろうと考えて、イラストレーターと、雑誌にエッセイも書いている俳優ということになりました。距離感や人との境界が違う二人がつき合ったら、どちらかが我慢することになりがち。その差をどう乗り越えるのか、あるいは乗り越えられないのかというテーマについて考えてみた作品です。

──凛太郎は恋人がいても一人の時間を大切にしたいタイプ。一方の日菜は「会っていない時間にも愛を伝えるのが恋人でしょ」というタイプで、段々そのずれが大きくなっていきます。

 認めたくないけど、わたしも凛太郎タイプなんですよ。枠があると安心する人と、その枠から逃げ出したくなる人がいると思うんですが、わたしは後者。強いられると窒息しそうになってしまう。日菜みたいな子の気持ちを理解したくて書いたという側面が大いにありますね。

──タイトルの「厚顔」とは誰を指すのでしょうか。

 凛太郎です。恋人を放っておいて、一人の時間を優先するんですから。常に繋がっているのがよしとされる今の社会では、凛太郎はマイノリティですよね。でも原稿を読んだ担当さんが、「日菜も大概では?」との感想をくれて、そうかもと(笑)。どっちもどっちという気持ちで改稿しました。

日常に風穴を開けるには、外に出てみること

──巻末に置かれた「星」は家事と育児に追われ、「鉄の箱に閉じ込められているような」気持ちを抱えている環の物語。カナダから帰国した親戚の子・海恩との会話によって、沈んでいた環の心に光が差し込みます。

 乳幼児を育てていた頃、すごく孤独を感じました。手は足りないし、責任は重いし、わからないことだらけで。そんな時、街中で親切にしてくれたのは見知らぬ高校生が多かったんですよ。ベビーカーを運びましょうかと声をかけてくれたり、ぐずったら相手をしてくれたり。同じ頃によその赤ちゃんがミニバスで大泣きしたことがあったんですが、乗り合わせた高校生が「ああいうのは仕方ねえんだよ」と言っていて、泣きそうになりました。感動のあまり、その場面は『愛を知らない』という小説に書きました(笑)。ああいう場面に出会うと、駆け寄っていってお礼を伝えたくなります。

──海恩は帰国子女ということもあって、考えも感性も自由で柔軟。これから先、二人はどうなるんだろうというところで物語は閉じられます。

 どうなるんでしょうね。恋愛関係になるかどうかは別として、環の心がちょっと自由になったのは間違いありません。これまで手をつけられなかった水回りの掃除ができたんですから、少しずつ立ち直っていけると思う。帰国子女といえば25年くらい前、留学していた友人がピアスを見せてと言われた流れでキスされたと話していて、それが当時のわたしには衝撃で(笑)。それを思い出しながら、ふたりの最後の場面を書いていました。

一木けいさん

──日菜のエッセイを映子が読んでいたり、ガムを手渡す亮之介を環と海恩が見ていたり、5つのエピソードがさりげなくリンクしているのも面白いですね。

 そこは単行本化にあたって書き加えたところも多いですね。書籍の担当さんとアイデアを出し合って、全体でひとつの繋がりが生まれるようなエピソードをいくつも追加しました。収録順についても担当さんのアドバイスが生きています。「星」は2番目に執筆した作品だったんですが、巻末に置くのがいいと提案していただいて。確かにこの並びにして正解だったなと思います。

──『1ミリの後悔もない、はずがない』でデビューして今年で8年。恋愛観や小説観の変化はありましたか。

 自由になりましたね。みんなもっと自分の心に従ってもいいんじゃない? と思えるようになった(笑)。先日、服屋さんの試着室から「この年齢でこれを着ていたら公害よね」という女性の声が聞こえてきて、それが卑下するニュアンスで、ショックだったんです。法に違反するほど露出してるとかじゃない限り、誰だって好きなものを着ていいし、年齢だって関係ない。人の目を気にしすぎて、自由に生きられないのはもったいないですよね。

──『あなただけに許す距離』は、そう思える勇気を与えてくれる本ですね。

 これまでさまざまな愛の形を書いてきましたが、トラウマや暴力といった社会的なテーマを絡めずに、純粋に恋愛だけを正面から扱ったのはこの本が初めてです。最後には自由になる人たちの姿を書いているので、どうか楽しんでください。日常に風穴を開けたいと思ったら、部屋にこもってはだめですよね。特に落ちているとき、部屋、酒、スマホは最悪の三点セットです。シャワーを浴びて、外へ出ましょう。できれば本を持って。そしてまわりの人の顔を見て、ささやかな会話を楽しむ。ドラマみたいな出会いが待っているかもしれない。信じて行動してみれば、世界が広がっていくと思います。


あなただけに許す距離

『あなただけに許す距離』
一木けい=著
小学館

 

一木けい(いちき・けい)
1979年、福岡県生まれ。2016年、「女による女のためのR-18文学賞」読者賞を受賞。デビュー作の『1ミリの後悔もない、はずがない』がミュージシャンの椎名林檎に絶賛されるなど話題となる。2026年『結論それなの、愛』で吉川英治文学新人賞候補。他の著書に『9月9日9時9分』『彼女がそれも愛と呼ぶなら』『嵐の中で踊れ』などがある。

一木けいさん

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