今月のイチオシ本【歴史・時代小説】

『博覧男爵』
志川節子

博覧男爵

祥伝社

 直木賞候補になった『春はそこまで 風待ち小路の人々』など市井人情ものの時代小説で人気を集める志川節子の新作は、〝日本の博物館の父〟と呼ばれる田中芳男を主人公にしており、初の歴史小説に挑んで新境地を開いたといえる。

 信州飯田城下の医師の家に生まれ、子供の頃から植物や鉱物を集めるのが好きだった芳男は、兄を早くに亡くし、十九歳の時に遊学した名古屋で本草学者の伊藤圭介に師事し、見識を深めていく。

 やがて日本が開国。芳男は、外国語の翻訳、教育などを行う幕府の蕃書調所の物産方勤務になった伊藤の助手として江戸に出た。蕃書調所には外交文書を翻訳する花形部署もあるが、外国産の珍しい鉱物、植物を研究する物産方は野菜の栽培など地味な仕事も多かった。そんな中、幕府のパリ万博参加が決まり、芳男たちは昆虫標本の作成を命じられる。

 芳男は、好きで打ち込んでいる研究が社会の役に立つのか疑問に感じたり、日本の本草学では珍しい昆虫標本を試行錯誤しながら作ったりする。著者は『花鳥茶屋せせらぎ』でも、鳥の生態を丁寧に描き、花鳥茶屋に集う若者たちの青春群像を活写しただけに、迷いながら進むべき道を探る芳男や、東洋の本草学から西洋の博物学に変わる時代の知の世界を追う本書を書いたのは必然で、著者のファンなら戸惑うことなく楽しめるだろう。

 パリ万博に行った芳男は、会場に展示された最先端の技術に圧倒されるとともに、博物館、植物園、動物園が一体になり大人から子供までが気軽に学べるジャルダン・デ・プラントに衝撃を受ける。

 維新後の芳男は、日本に博物館を造るべく奔走するが、その前には、富国強兵を優先する国の方針、知の充実発展に無理解な為政者などの壁が立ちはだかる。

 コロナ禍で博物館、美術館、映画館、劇場が大打撃を受けたことからも分かるように、日本は先進国の中でも文化予算が低く、政治家の関心も低い。国民の知的好奇心を刺激することは国力の増強にも繋がると確信し博物館を設置するため奔走した芳男は、こうした日本の現状を批判する役割も担っているのである。

(文/末國善己)
〈「STORY BOX」2021年7月号掲載〉

北村 薫 ◈ 作家のおすすめどんでん返し 05
芦沢 央『神の悪手』